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手話、日本語、そして英語の狭間で

私コーダの生活

コーダも育った環境はそれぞれ異なる。手話の環境もあれば日本語の環境もある。今回は私コーダとしての話をしたいと思う。私の人生にはもう一つの言語が存在する。手話、日本語、そして英語という三つの異なる言語に囲まれて育った。家庭では手話、学校では日本語、そして祖母の家では英語が飛び交っていた。この環境は珍しい方だと思う。同時に私にとって豊かな経験をもたらしてくれた。友人にこの話をすると、「面白い環境だね」とよく言われ、「なかなかない環境だからもっと話したほうがいいよ」と勧められることもある。今回はその一つについて触れたいと思う。

手話の家庭環境

両親が聴覚障害者だったので、家ではいつも手話が主なコミュニケーション手段だった。手話は、私が最初に覚えた言語であり、感情や思いを自然に表現する方法だった。母と手話で会話する時間は特別で、かけがえのないものだった。特に母との絆は、手話を通じて深まった。手話で会話することで、安心感と温かさを感じることができ、母とのつながりが強まった。

日本語の学校生活

学校に通うと全く異なる言語環境に直面した。学校では日本語が主流で、手話は使わなかった。小学校低学年まで学校へ行くことは、まるで異国に来たような気持ちだった。幼稚園から集団行動が始まったが、最初は友達ができず、幼稚園に行くのを嫌がっていたそうだ。3歳から電話通訳をしていたが、コミュニケーションをとりながら集団で行動するのは別だった。私にとって、日本語を中心に話す同年代の友達は初めてだったからこそ多くの混乱があった。

幼稚園の卒園式

特に印象深いのは、幼稚園の卒園式のエピソードだ。園児全員が先生を見ながら歌う場面で、私は一人だけくるっと保護者席を向いて口を大きく開けて歌ったそうだ。幼少期の私には、歌の歌詞を理解し、日本語の歌詞を手話にすることが難しかったため、母の顔を見ながら自然と口を大きく開けて歌ったのだろうと母は言っていた。私は幼いながらに手話と日本語の違いを感じていた。この卒園式では、初めて手話通訳者が同席したのだか、大人になって再会したときに聞いた手話通訳者の話では、保護者席の皆さんがその姿に胸を打たれていた様子だったと聞いた。

祖母の家での英語

さらに、祖母はアメリカ人の祖父と再婚しており、祖母の家に行くと英語が主な言語だった。祖母の家にはよく行っていた。祖父は米軍に所属しており、私たちは米軍基地を行き来していた。生まれてすぐの頃、現在のイオン本牧にある米軍基地内に祖父母の家があり、よく訪れていた。その基地内の家はとても広く、家の前には広々とした芝生が広がっていた。私はその芝生の感触が嫌いで、芝生に下ろされると泣いていたそうだ。

祖父との深い思い出

祖父との思い出も特別だ。祖母と母に挟まれて戸惑い泣いてしまうことがよくあった。泣くことが私にとって自分を守る手段だった。泣くと祖母と母は「泣き止みなさい」と言ったが、その間、私は解放されるのを学んでいたのかもしれない。そんな時、必ず祖父が私を抱き上げ、「Shuu」と言いながら空を指差し、「Look up」と言って私を落ち着かせた。そして、「Edelweiss」という歌を静かに英語で歌ってくれた。祖父の歌声に耳を傾けているうちに、私は次第に泣き止んでいた。この歌は、今でもふと口ずさむことがある。この曲は小学校の音楽の時間でも日本語で歌うのだが、英語で聴き慣れ、歌い慣れた私にとって時折混乱を招くことがあった。それも今は良い思い出だ。

言語の多様性と他文化共生

手話、日本語、英語という三つの異なる言語環境で育った経験は、私にとって大きな財産だ。手話の家庭では深い絆を感じ、日本語の学校生活では言語の多様性を学び、英語の祖母の家では異文化に触れることができた。これらの経験は、私に多文化共生の重要性とコミュニケーションの大切さを教えてくれた。幼いころから、異なる言語や文化が共存することの素晴らしさを感じ取り、さまざまな背景を持つ人々とコミュニケーションを取ることが重要であると理解してきた。

言語との葛藤とその価値

私の悩みは、手話、日本語、英語と、ある意味どこにも属さない未完成な言葉の存在だ。日本語で文を書くと、それが躊躇が如実に現れる。でも、逆に言えば、日本にいながら手話言語の文化に触れ、フェンス一つ通過するだけで米軍基地の中でアメリカ文化や英語文化に触れることができる。この貴重な体験が、今の仕事に繋がっているのかもしれない。そう思うと、言語で葛藤した瞬間もすべて私にとって宝物だ。

異なる言語と文化の中で育ったことで、柔軟な思考と広い視野を持つことができた。手話、日本語、英語の狭間で育った私の人生は、多様な価値観を受け入れる力を育んだ。これらの経験を通じて、私は他者とのコミュニケーションの重要性を学び、多様な考えを尊重する心を持つようになった。私の生まれ育った背景から、これらの交差する場所でそれぞれの想いをつなげる役割をしたいと思う。コーダとしての私の人生は、多様な文化や言語に触れることで豊かに彩られ、私のアイデンティティを形成する大切な要素となった。だから今の選択に迷いはない。自分が選んだことに自分で責任を持ちながら未来を描いて歩み続ける。たくさん見て触れた経験はまたおいおい書き留めていこうと思う。

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