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「生きる」ことと、「生きながらえる」ということ

この文章は、好きなことだけで生きられる!って行動せずに思っているだけの人、「好きなことして生きていきたい!」と子どもに急に言われた親御さんと、自分のやっていることで生きられない!どうしようと思っている人に、愛を持って捧げます。

私は北海道教育大学に通う大学5年生である。私は石川県から進学を機に函館にきた。しかし、ひょんなことから古民家でシェアハウスを始めた。シェアハウスという名前が嫌で人生の学び舎「荘」に途中で改訂した。あの頃はやりたいことだけで、生きていけると信じていた...。

「生きる」ということと、「生きながらえる」ことの違い

まだ、何も知らなくてなんでも興味があってなんでもお手伝いをしていた学生時代(まあ、今も休学中だから学生だけど)のころ。私は精一杯「自分」を生きていた。お金が発生しようとしまいと、どうでもよかった。ただただ自分を生きたかっただけだった。自分を「生きる」ということは、生計うんぬんとかではなく、ただただ自分の本能のまま、自分の赴くままやってみるということだ。いろんなボランティア、面白いからやっちゃうノリを命に生きていた。楽しかった。でも逆に言えば、サークル活動の最中は、ちょっと嫌になったらすぐにやめられたし、ちょっと人間関係ごちゃごちゃしたら距離をおくことができた。

「生きながらえる」ということは、生計を立ててこの資本主義経済の中で、自分が心身ともに健やかにのびのびと生き続けられるということである。だから「生きながらえる」ために私はお金払ってくださる人のことを考えて、「働く」という行為をとらなきゃいけないし、それは途中ではやめてはいけない、しっかりとしなければいけないことなのである。

私はこの一年で「生きる」ことと、「生きながらえる」ことのバランスを知った。私はこの体験を通した学びを「生きる」ためにここに書かせてもらいたい。全力で書くので、響く人に届いて欲しい。

「生きる」場所

私は、石川県から函館にきたはいいものの、社会や自分にもやもやしていることを過疎化してなんにもない函館のせいだと決めつけ、自分はこんな町に来て、最低な人生になる、なんでこんな道を選んでしまったのか。。。と家にこもったりして病んで

だけど、函館で変態(自分のやりたいことを大人になってもやり続ける人・夢を語り周りを巻き込む実践者)たちに出会って、その人たちに巻き込まれ、まちに対して主体的になっていき、もっと変態の幅も広がっていき、同時に自分の人生も楽しくなっていった。函館のことを自分がなんだかつまらなそうにしていただけだった。自分が変われば、まちへの見方も変わったのだ。

それから私は、昔の自分のように函館なんてと思っていたり、自分の人生にもやもやしている人を対象に「人生の学び舎『荘』プロジェクト」として函館市西部地区でシェアハウスを始めた。

ただただ、「あれ、自分次第で函館って面白い!」とか、「自分の人生も悪くない!楽しいかも!」というような人を増やしたいという心からの情熱ありきでこの家に住む覚悟を決めたのだ。

もやもやしている人と話したり、スカウトしたりしてるうちに、1年間で3荘に増え、荘民(住んでいる人)は12人になった。月一でイベントをやったり、喫茶店やバーをやってみたり、どんどん地域でやりたいを実践していく場所になってきた。
まちづくりをするために集まってるわけじゃない。荘という場所で共同生活をしながら、自分と対話し、自分のやりたいことを、失敗してもいいからやってみれる表現の場所として機能していきました。

自分たちがやりたいことが、街を自ずと作っていっている。そんな感覚があった。時に寒い!とSNSで投稿すると、あれよこれよとカーテンや毛布ストーブを持ってきてくださり、それをきっかけに沢山の地域の人が荘に遊びに来てくれたり、関わってくれた。

この家に住むことを通して、少しでも函館という町と関わる機会が増え、幸福度が高まったのであれば、それだけで嬉しかったし、ここに入って自分の人生は自分で決めていいんだとか、自分らしく生きられているとか荘民から聞くだけで、「あぁ、生きている」と感じた。

そうやって「生きる」ポイントがたまる一方で、財布にお金はないし、何かが壊れた時に直せたり、後輩にお茶を御馳走できるお金=「生きながらえる」ポイントはどんどんなくなっていった。

生きながらえるために働くことの葛藤

だけど、これからの将来の人生のことを考えると「生きながらえる」ということは、自分だけでなく子どもを育てたり、親の介護とかもしなくてはいけない。そのためにはちゃんとお金がかかるのだ、この国で生きながらえるのであれば。

楽しいこと、誰かのためになることは、すぐにお金になることではないとこの一年で気づいたのだ。

どうにかして、「生きる」ことと、「生きながらえる」ことが一緒にならないかなと考えた。そこで考えたのが…好きなこと=荘の活動を生きながらえる活動にしたらいんだ!という思いつき。

しかし、荘の活動で「生きながらえる」ことができるようあれこれ考えたけど、それは自分らしく「生きる」ためには無理だった。いや、やりたくなかった。
だって、「生きながらえる」活動にしようとすればするほど、高所得者層だけのものになっていったり、確実にお金が稼げるようにと対象を定めたりしなくてはいけなくなった。その時にどんな場所にしたいのかがわかってきた。私は他世代が、フラットに利害関係なく交われるような学びの場を作りたいと願っていたのだ、、、、。だからお金のためと気を張るとなると、どんどん義務が生じ、自分の気持ちが貧乏になって行った。

どこか生きながらえるためだけに働くことへの偏見があった私は、生きながらえるために働くなんてしたくないと思ったが、私は割り切って「生きながらえること」と「生きる」ということを分けることに決めた。ここにきて初めて、働こうと思ったのだ。私は今まで就職したくなかった。それは組織の一員になって、働かされるのがいやだったからだ。(偏見)

生きると生きながらえるのバランス

そうしたらまた、「荘」の活動が生き生きとしてきた。そして「生きながらえる」ために働くことは責任が生じるが、食べていくためのものだと思って割り切ったらそれはそれで楽しかったのだ。なぜなら「生きながらえる」ために一緒に働く人は、めちゃくちゃ面白い人たちだったからだ。そして働く内容としてもやりたい活動が阻害されず、自分の特技を発揮できる仕事だったので、何にも苦じゃない。むしろ相手も本気で、責任を持って働いている人はかっこいいと思った。しかも、生きながらえるための仕事は「生きる」ための活動に対しても、金銭的にも恩恵を与えてくれるものだった。私はこんな人たちとこんな仕事ができることに感謝している。そして「生きる」ためのことだけが、人生楽しいことなんだという偏見から抜け出させてくれた。でも、多分「生きながらえる」だけのことをやっていても楽しくない。結局のところ「生きながらえる」ことと、「生きる」ことどちらもあるから私は今、生きてるんだ。

どうやって1年間「生きる」ことだけで生きてきたのか

かと行ってここまでくる1年間は、バイトをしたことがない。どうやって生きてきたのかというと、それは一重に応援してくださる皆様のおかげなのである。私は人に恵まれていたのである。優しい皆様のおかげで普段は買えないようなものをプレゼントしてくださる方がいらっしゃったり、時にはおいしいご飯屋さんに連れて行ってもらったり、温泉や素敵な宿泊所を用意してくれたりした。泣ける。。。そして、時には私のイラストやアニメやグラレコを買ってくれて時々善意で「生きながらえる」ポイントも少しだけど溜まっていった。少し溜まった「生きながらえる」ポイントを「生きる」ポイントに換算したりして、とにかく自分を生きた。なんだか不思議な一年だったが、絶対私はこの一年、自分のわがままのまま生きられたのは他でもなく、たくさんの人のおかげである。本当にありがとうございました。

その応援してくださる皆さんになんで応援してくれるのか聞いてみた。そしたら、一番多い回答は「あなた自身が面白いからだ」と教えてくれた。笑。
その時に、自分を自分として生きることを諦めなくてよかったと、思った。確かに、今まで何かしらサークルなどといって適当にしていたあれこれは、「生きる」ためのものだと思っていたんだけれど、本気でやらなければそれはただの「お遊び」なのであった。生きるためにやるって何か。それは覚悟を決めてそのことに責任感を持ってやりきるぞ!ってことである。最初こそその覚悟はあまりなかったけれど、何度も火を消したり、消されたりする中で、自分に何度も問いをたてた。「こんなに大変でも、「荘」を本気でやりたいのか?」と。自分に聞いた。そしたら答えは毎回、「やりたいやりたいやりたいんだ」と心が叫んでいた。それは、ここがあってよかったと言われたり、ここで学べましたと時に涙を浮かべながら、声に出してくれる人がいるからだ。私はそのこと自体がお金以上に価値があると思う。私はその度にやっていることの価値を感じられ、信じられるようになった。そしたら自ずと多くの人が応援してくれるようになった。

やってみたいけど、できない人は、うん、やろう

生計のことや周りのことをあまり気にしなくても良い学生時代、若い時や、独り身の方は、「生きる」ためのことだけかもしれないことでも全力でやってみて欲しい。お金がつかなくても全力で続けてしまったら多分、それはあなたが「生きる」ためのことだということ。「儲からないから。」とか「ちょっと失敗したからやめます」みたいなことだったら、すぐにやめたらいい。だって、それくらいのものなんだから。そんなことのための時間なんて人生ありません。お金なくてもやりたいんだってことを見つける旅にどんどんでたら良いと思う。残念ながらそれはやってみた人にしか判断できない。行動した人にしか「生きる」ためにやりたいことは見つからない。しかし残念ながらそのなんでもやってみたらいいからやりなよというのは、1人では難しい。だから、そういう人は、やってみてる人たちに出会えるような環境に身をおいたら良いと思う。一緒にやりながら学んだらいいと思う。(失敗しても良くて、やってみれるようなところ函館にあるよ....このまま読んでね)

「好きなことして生きていきたい!」と子どもに急に言われた親御さんへ。

私が一年前、「このようなことをしたいから、やっぱり就職をやめる」と親に言った時、もちろん最初は「どうやって生きていくの?」と言われたから、悔し泣きしながら「もういいから!まあ、見ててよ!」と電話を切った。そう、ふっかけられた時に、初めてやってやるぞと決意した。そしてやったことを都度報告することで「うん、続けてやってみたら」といってくれるようになった。その代わり「多くの周りの人に感謝の気持ちを忘れるな」と釘を指してくれた。加えて「いつでも戻ってきていいよ」とメールをくれたり、生姜と蜂蜜を送ってくれた。私は嬉しかった。手段にとやかく言うのではなく、自分の気持ちを信じてくれたことが嬉しかった。でも、まずは子どもである私自身が、今から始めることに本気かどうかを示さないといけないと思う。そして、その様子を見て、信じてやらせてくれたことに心から感謝している。だから、もしこんな子どもを持った親御さんがいたら、ダメという前に、本気度を試すため、お試しでやらせてあげてほしい。本気なら続けるし、本気じゃなかったら、すぐやめますよ。

好きなことだけで生きたいと、行動せずに思っているだけの人々へ。

私はその意見が言える限界はあるとは思うけれど、本気でやりたいなら、とにかく「やってみなよ」という一言は送ってあげられる。だけど、自由と責任は伴うから、ちゃんと自分の尻は自分でふけよという言葉も一緒にかけてあげる。うん、でも、とにかく一番良いのは、「荘」においでよ。です笑やってみられる表現の場所は函館に3つ「荘」としてあるからぜひきてください!やってみてて諦めそうな人、もうよく分からん!みたいな人は、うちにきて、住みながらやってみたらいいかと思います。宣伝みたいになったけど、この活動は本当に世の中の人が「生きながらえる」前に、「生きる」ための表現の場所になりうると確信しているので紹介します。
以下わらじ荘リンクですhttps://www.warajisou.com/%E8%8D%98%E6%B0%91%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84-1

ということで、私は、これからも「生きる」ことと「生きながらえる」ことを割り切ったり一色にしたり、そうやって、自分を生き続けるのであります。うーん!生きることが楽しみすぎる。

いただいたものは、全て大切なひとに、そしてまちに、使わせていただきます。