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人が好き。

考えるのが好きだ。色々なことを考えて、ノートにまとめて、また考える。人一倍ものを考えているという自負があるし、考え過ぎて日常のやるべき事や趣味などがおろそかになっている。興味や好奇心から湧いた疑問を考えるのも好きだし、日常の悩みや目標達成のために何をするかを考えるのも好きだ。考えることは俺のライフワークになっている。

毎日毎日ものを考えていると次第に気づくのは、自分の考えていることがいかに流動的かということだ。日記を見ると分かりやすいのだが、一昨日熱心に書いた考えを、今日はさっぱり忘れて真反対の意見を書いていたりする。特に人間関係とコミュニケーションについては、書いていることがコロコロ変わる。毎日同じことを考えていたらそりゃ面白くないのだが、一貫性がなさすぎてよくない。

そんなことを繰り返していると、だんだん自分が何を考えているのか、何を考えればいいのかが分からなくなってくる。今自分が考えていることに果たして意味があるのか、いや意味を問うほうが間違っているのか?
考えれば考えるほど、どんどん混乱していく。これはいけないと思い散歩に出ることにした。

煮詰まった時は、散歩をする。人間はどうやら、歩きながらものを考えると頭がクリアに働くらしい。京都には「哲学の道」というものがあり、昔の学者もそこを歩きながら、哲学にふけったと聞いたことがある。以前行ったことがあるのだが、川沿いの落ち着いた道で、確かに考え事をするには最高のロケーションだった。

以下は散歩をしながら考えたことだ。

俺が人が好きだ。それ以上の原動力は他にない。女の子はもちろん好きだ。女の子と話したいし、触れたいし、仲良くしたい。でもそれだけじゃなくて、同性の友達とも仲良くしたい。一緒にくだらないことで盛り上がりたい。バカみたいな飲み会をしたい。同性も異性も含めて人が好きだし、人からは好かれたい。

当たり前のことかと思われるかもしれない。多かれ少なかれ、誰でもこういった欲求はあるはずだ。でも、たくさん好きなものがある中で、特に「人」は間違いなく好きだと断言できると分かったのがものすごい発見だった。

俺は麻雀も好きだし、音楽も好きだし、読書も好きだし、映画も好きだ。料理もちょっとはまっているし、温泉は定期的に行きたくなる。でも、そのどれをもしのぐほど人が好きなのだ。

「人が好き」というのは確実で、確固たる事実だ。今後何かものを考えたり、目標を立てたり、行動したりする時には、ここからスタートすればいい。自分が何を考えているのか分からなくて混乱するということはない。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。世の中で、確実に存在しているもの、確実に真理だと言えるものはとくと見当たらない。神も私たちの創造物かもしれないし、私たちが見ている現実は胡蝶の夢かもしれない。
ただ「今ものを考えている私という存在」があることだけは確かなので、そこを根本的な真理として哲学をスタートすればいいと言った。これが演繹法である。

俺も「人が好き」という確実な羅針盤が自分の中に見つかったので、今後はそれを演繹しながら生きていけばいいわけだ。
「人が好きだから、こうなってしまうのは仕方ない」とか、「人が好きだから、今度はあれを目標にしよう」という風にものを考える。

「人が好き」に沿ってものを考えると、今までの自分の行動にも説明がつく。コミュニケーションにこれだけ凝るのは、人に好かれるためにはコミュニケーション能力が必須だと考えているからだ。彼女に物凄く入れ込んでいるのも、安心して好きを表明できて、相手から好意を獲得できるからだ。人に嫌われるのが怖くて下手に自分から近づけないし、仲良くなっても距離を縮めるのが下手だ。麻雀やゲームも好きだが、やる相手がいなくなったらぱったりやめてしまった。本当に好きならネット麻雀なんかで一人でも続けるはずで、俺はコミュニケーションツールとして麻雀やゲームを楽しんでいるのだ。

人の次に好きなのは、音楽だ。音楽は人のためにやっているのではなくて、純粋にそれが好きだからやっている。そういう風に、「好きなもの」という観点から視点を拡張していくこともできる。


人が好きだと分かったことで、今はすごく晴れ晴れとした気持ちだ。それでも今後はまた悩んで、考え過ぎて、落ち込むことも多いだろう。だが根本には「人が好き」という確固たる気持ちがあることは忘れないようにしよう。




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