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コミュニケーションオタクのつぶやき

僕はコミュニケーションオタクだ。

日本人のほとんどはコミュニケーションに興味があると思うが、僕は度を越している。ように思う。ほぼ毎日書いている日記(と言えるほどまとまったものではない雑多とした文章)の中には、今日のコミュニケーション方法はどうだったとか、相手にこう思われただろうとか、次はこうしたいなどと、コミュニケーションに関する事柄ばかりだ。

コミュニケーションオタクになったのは、人間関係が苦手だったからだ。別に今も得意というわけではないが、昔は本当に社会不適合者と言えるぐらい人と関わることを知らなかった。家族を含め人と会話した文字数より、圧倒的に読んだ活字数の方が多かったのは間違いない。

人間関係をどうにかしたいと思う一心で、コミュニケーションの勉強を始めた。コミュニケーションがうまくできれば人間関係もうまくいくと思ったのだ。でも、コミュニケーションを続けていくうちに、会話をして興味深い情報を共有したり、笑えるやり取りをしたりすること自体に魅力を感じてきた。

人間関係をうまくやることが最終目標ならば、人間関係オタクになればいいのだ。でも僕の場合はコミュニケーションオタクになった。人間関係がうまくいくことよりも、コミュニケーションがうまくいく方が楽しいと感じるのだ。日々どうやったら話が盛り上がるか、どうやったら無理なく会話を継続できるか、どのような話題を提供するかということを考えている。

しかし最近気づいたことだが、コミュニケーションが人間関係に及ぼす影響はもちろんあるのだけれど、人間関係がコミュニケーションに及ぼす影響も大きなものだ。

例えば、「笑う」という行為が生じるのは純粋に面白いことが発生したときだけではない。友好の意思を示すための「笑い」、相槌の意味での「笑い」もある。むしろ、日常生活の中ではそちらの占める割合の方が多いのではないだろうか。女の子なんかは仲のいい人たちで集まると四六時中笑っているが、あれは何かが面白いから笑っているのではなく、連帯感の表明のために笑っているのである。だから女の子同士は笑いのハードルが下がって、とんでもなくつまらない会話を延々と続けるという現象が起こる。(とんでもない極論である)

会話している相手に笑ってほしいというのは割と普遍的な欲求であるように思うし、コミュニケーションオタクの自分からするとなおさらである。そして、人に笑ってもらうためには純粋に面白いことを言えるように努力するよりも、笑えるような関係性をつくることの方が簡単でかつ効果的な方法だと思う。仲良くなれば自然と笑いの量は増えるし、笑いやすくなるような雰囲気や、キャラクターを持つことも一つの方法だろう。

さらに、人間関係なきコミュニケーションは非常にむなしい。

コミュニケーションの研究を続けて5年以上が経ち、平均以上のコミュニケーション能力はあると自負している。しかし、例えばある人とすごく盛り上がった話ができたと思ったのにそれ以降会っても相手から話しかけてくれなかったり、場は間違いなく盛り上がったのにそのグループで集まる機会が極端に減ったりなど、コミュニケーションの成果が直接人間関係に影響しないこともしばしばある。いくらコミュニケーションオタクと言えど、流石に自分のコミュニケーションが自己満足すぎないかと反省する。やっぱり友達は欲しいのだ。コミュニケーションオタクには限界がある。

では、人間関係を主眼に置くのはどうだろうか。人間関係はコミュニケーションも包括している。コミュニケーションが目的ではなく手段となる点が大きな違いだが、上述の通り人間関係とコミュニケーションは相互に影響しあう関係にあるため、人間関係が充実すればコミュニケーションに対する欲求も満たされるはずだ。


よし、今日から僕はコミュニケーションオタクではなく、人間関係オタクだ。







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