英作文採点者の憂鬱2

前回は、日本の英語教育(特にライティング教育)で発生する可能性のある評価の不公正さについて述べた。不公正さを孕んだ評価は中等教育機関(特に中・高)では常態化している。これは公教育機関であるか、民間教育機関であるかは問わない。

今回はこの不公正さの背後にあるものについて考えたい。

国際共通語としての英語

World Economic Forumが次のような動画を出している。

この動画の元となるデータがこちらの論考に示されている。

These are the most powerful languages in the world.

Wordl Economic Forum

これによると、英語のもつ影響力を示すスコアは0.889(満点=1.000)で最高評価。二位の中国語は0.411で英語の半分にも満たない。三位・四位はフランス語0.337、スペイン語0.329で団子状態。

World Economic Forumは今から約30年後(人口学的に言うと、親世代が子世代に交代する頃)2050年に言語の影響力がどうなっているかも予測している。一位:英語0.877↓、二位:中国語0.515↑、三位:スペイン語0.345↑、四位:フランス語0.325↓‥‥‥というわけで、中国語が猛追してくるが、まだ英語の首位は崩れない‥‥ということのようだ。

英語が国際的意思疎通の手段としてすでに代表的なもののひとつであることは疑いようもない。この World Economic Forum の研究成果を細かく見ると、母語話者人口では中国語に及ばないが、他のすべての面(地政・外交・経済・科学・メディア)で英語が最も有力視されている。

最強の陰に、副産物あり

このように英語の言語的影響力が大きくなることは何を意味しているのだろうか。英語の使用者が増加していること、それに伴い英語話者のバックグラウンドが多様化している、ということである。これは新生変種が確立されたり、既存変種の差異が拡張されたりすることを意味する。第二言語や習得言語として英語を使用する人は第一言語が別にある。彼らの英語は第一言語の言語特性に何らかの形で牽引された新たな変種となっていくのである。

David Crystal (2003) は、英語の使用者を次の3種類に分けている。(数はあとになるほど多くなる。)

(1) 母語として使う人 < (2) 第二言語または公用語として使う人 < (3) 外国語として使う人

CRYSTAL, D. (2003) English as a Global Language.  2nd ed.  Cambridge University Press.

EthnologueStatistaの調査報告を読むと、中国語と違って、英語の場合には(1)の数はそう増えないが、(2), (3)の割合が今後増大していくことが予想されている。そうすると、英語の変種の多様性の幅はこれまで以上に広がっていくだろう。

Crystal D. (2003) は、英語の変種が多様化して、変種間の距離が開きすぎると、英語話者の間の意思疎通が困難になる可能性もあるとしている。こうした事態に陥ることを懸念して、World Spoken Standard English (WSSE) なるものが台頭してくる可能性があると言う。そして、こう主張している。WSSEの生成過程では、US標準英語が大きな影響力を持つようになる、と。

日本の初等中等教育における英語のモデル

日本の中等教育機関では、US標準英語がとりわけ珍重されている。しかし、実はどの変種をモデルとするのかについては、学習指導要領には何も記載がない。記載はないが、とにかく実情はそうなっている。

そうなった経緯は科学的合理性というよりも大人の事情が深く影響しているような気がする。しかし、もし Crystal D. (2003) の主張に一定の妥当性があるとするなら、霞ヶ関にも先見の明があったと言えるかもしれない。

標準・非標準を問わず、さまざまな英語変種が飛び交う中での意思疎通のしやすさ、今後の影響力の大きさを顧慮すると、日本の英語学習者がUS標準英語をモデルにして学ぶことには合理性がある。

しかし、US標準英語をモデルにするからといって、オーストラリア(AU)英語、インド(IN)英語などを切り捨ててよいことにはならない。自然な流れで教材に登場しているのに、その変種に全く触れないで進むのはいかがなものか。メルボルンやムンバイの人がUS標準英語で話すのはおかしくはないか。

また、生徒が書いたシンガポール(SG)英語を、頭ごなしにUS標準英語に訂正するのも推奨できないと思う。私的な目的のインフォーマルな文章においては、生徒の言語上のアイデンティティを尊重する姿勢を教師はとるべきではないだろうか。生徒の使った表現はある程度尊重しつつ、より良い表現があればそれを示唆しつつも、描写の緻密さや一貫性を高めさせ、読み手に受け入れやすい文章を書く指導をすることが、生徒にとって必要なことであり、同時に生徒のアイデンティティを尊重することになると私は考える。

試験の答案や意見文のようにフォーマルな文章であれば、標準英語を使うように促した上で、まずはSG標準英語に修正をいくつかヒントとして示してやれば、生徒にとって受容しやすいだろうと思う。

生徒目線と言うにはこれでも不足かもしれないが、しかし現状は上述のような状況にも及んでいない。教科書の音声教材はムンバイ(インド)でヒンドゥー教徒が話している時も、オークランド(ニュージーランド)でマオリ族の人が話している時も、どういうわけかUS標準英語だし、教師は「友人への謝罪」をしたためた手紙文も、「今日泣きたかったことがあった」と綴った日記文も、「親は子供にとって常に最良の教師とは言えない」と論じた文も、全部同じようにフォーマルな英語に修正しようとする。

そういう指導の狙いも、教育現場の事情もわからないではないが、やはり読んでみると違和感は否定できない。帰国生や外国籍などの生徒の中には英語が母語で、そうした指導が一因となって傷ついている者もいる。本人たちは明確に言語化しないことも多いけれども、母語を封じられるストレスは無自覚の裡に膨らんでいる。そうした傷みにも一定の理解を示すことが求められる時代になっていると私は思う。

大学教育・大学入試

幸いにして、大学教育はこうした偏重には陥っていない。少なくとも私が職場で見聞する範囲ではそうだ。

たとえばセンター試験でも、共通テストでも、リスニング試験の問題は配慮されていて、英語変種間の意思疎通の阻害要因となりうる要素(たとえば、音の縮約・連続・変容など)は周到に排除されている。消極的な配慮と言えなくもないが、これは歓迎されるべきことである。大学教員が多様な英語変種の存在を明確に認識していることの証左のひとつとも言えるのではないだろうか。

個別の大学の学部入試の採点はどうか。答案がどこの地域の変種で書かれているかということをライティングの採点にあたるネイティヴ・スピーカーが気にすることは珍しい。気にすることがあるとすれば、やはり意思疎通が阻害される場合である。あるジェスチャーのもつ意味が文化によっては理解されない場合があるのと同じように、言語の場合も変種のもつ文化的特異性が想定を超える場合には理解が困難になる場合がある。

たとえば a-b は Japanese English の例である。

a. I want to be a cabin attendant.  b. I found a letter from him in the post.

ストレスなく理解してもらうには flight attendant, mail box を使うべきだが、このままでも理解困難というわけではない。

しかし同じ Japanese English でも c-d は通じないだろう。

c. He was in high tension at that time.  d. He is a good mood maker.

これらの表現はネイティヴ・スピーカーの英語から見て距離がありすぎる。その意味は彼らが想像力を駆使しても届かないほど遠いところにある。たとえ文脈があっても、その真意が即座に伝わるかどうか疑問なしとしない。変種間の距離もここまで離れると意思疎通が阻害されてしまう。このような場合は「誤り」とされても仕方がないだろう。

採点者にとって最も重要なことは、まず明確に伝わる英語かどうかなのだ。その上で、解答の内容が題意に沿ったものであることが求められている。

初等中等教育課程における英語教育のモデルがUS標準英語である一方で、大学教育は World Englishes という立場で進められている側面がある。しかも、そのことを大学はことさらに明確にしないでいる。初等中等教育課程における英語教育に対して一定の忖度が働いているのかもしれないが、このように、両者がある種の乖離をしている現状では、受験生や予備校は板挟みに遭うのだ。

予備校で出会う受験生たちにどのような指導をするのが実践的なのか、流動的状況の中、30年あまり模索してきて辿り着いた局面について、次回はお話ししたい。

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