見出し画像

【文学批評】この世界にいない「きみ」の言葉にこそ (山口静花さん『8月32日』【お題文学企画「8月32日」】)



山口静花さん『8月32日』





齋藤圭介 評

 X月X日という揺るぎがたいフォーマットがあって、そこに当てはめられるべき数字が当てはめられない場合にはわれわれの文字情報を司る機能は認識のエラーを起こす。それらをすぐさま排除しようとするし、修正しようともする。13月4日も、4月56日も、0月1日も。そしてもちろん、8月32日も。
 8月の、32日。さんじゅう、に、にちーーいじらしい「ひっかけ」のために読み取りの速度はコンマ何秒遅れるにしても、二度見するまでもなく不一致の信号は間違いなく身体の末端まで伝わる。行動は早い。ためらいもない。
 こういう咄嗟の違和感に対してすぐに然るべき処置をしようとするのが一般社会的な言語体系だとするならば、この作品はそういう機構とは関係もない場所から発信されている。「きみ」はこの世界の外側にいる。「きみ」は、そこにいる。それも明るい声なのだ。「僕」にはそれがわかる。声が届いているのだから。「僕」はそれを認める。なに疑いもなく。それは間違いのない方法で、伝達されているのだから。
 認識の違和感のずれを微調整することでそこに時空間の小部屋を作り出して、水や酸素さえも感じせることができるのが文章の持つひとつの強みだとするならば、それら言葉の連なりを伝達された側は例えばこの部屋に近未来のX年を打ち建てることもできるし、指一本と簡単な数列で身体を移動させることもできてしまうのだから、文章というものはなかなか渾身の経験であると思う。この場合読み取るという行動については遅いということにこそ意味があり、そこには時として充実のためらいもある。
 例えば物語の後半、「僕」は「きみ」を「まぼろし」のように感じる。ここで一読者は、ひとつの重大な事実に気が付いてしまったような錯覚を感じる。絵空事という、事実である。ほんとうは「きみ」は存在しないのではないか。「僕」が作り出した影なのではないか。会話の内容と無線電信のつめたさが、その不安に拍車をかける。もっともらしいと思われた安心感のある伝達は、儚くうつくしいものになる。「僕」ひとりだけが「体の輪郭がはっきり」として、「きみ」は別世界で「ほんとうにひとりぼっち」になる。「僕」はためらう。
 しかし一読者は、改めて別の事実に気が付く。そうだ、8月32日なのだと。間違われた日付に、間違いなく「きみ」はいるのだと。「きみ」は、そこいるのだ。それも明るい声なのだ。そしてもう一度、「僕」はそれを認める。物語のフォーマットは何度でも揺さぶられる。
 しかしまたそれら事実の報告は役所への提出書類ではないのだから、全く自由である。どのような夏服を着ようか。「きみ」のもとへ行こうか。行くまいか。こういう逡巡は、現実の「僕」の行動をも深く悩ましいものに変えていくだろう。まさしく、「さむさにひとつ、身震い」するように。――そんなことを考えている、ごく平凡な9月26日の秋の夜長の読者である「わたし」は、今度はyoさんの描き出した言葉の日付変更線を跨いでみようと思う。


※イベントの批評文字数を超えてしまいましたが、超過分はわたしの今回のイベント課題に対する提出作品として、お許しください。(メンバーでわたしだけ8月32日の物語を提出していないので。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?