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【北原白秋『浅草哀歌』】返歌としての幾つかの断章

北原白秋『浅草哀歌』

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齋藤圭介 評

  1

 文語はもうなくなったわけではないけれども、ほとんどそれはもう幽霊となったに違いない。頼れるのは字面だけで、「浅草」も「仲見世」もどうやら健在だが、その中身はきっと空き箱でしかもぎちぎちに詰まっているかと思えばそれは見せかけで実体は空虚な代物である。
 けれども諦めてはいけない。歌うことを。その空き箱の塗りの剥げた外側の世界がある限り、あるいはそれから何かを読み込むことができる限り。見せかけこそが本質で、それこそがまたこの都市の魅力なのだから。塗り立てのペンキは常に新しく、「かなしき者」も「漂浪へる者」も服装と身分を変えながら往来している。「幻燈」も「蓄音機」も、ただその見せ方と在り方が変わったに過ぎない。
 浅草について「われは思ふ」ところを捉え続けようとすること。それは曲芸に近い。どこかうらぶれていて、どこかまた哀しいのである。匂いや節々もみなそれらに準じる。どのように華やいでいても、このまちは歴史的に空虚なのである。だからきっとうつくしいのである。

  2

 このまちに一歩踏み込みんでしまえば、もうそのひとはこのまちの登場人物のひとりである。ひとだけではない。このまちのすべてのバルコンには、照明器具が絞られる可能性がある。あるいは、そういう心持ちでいること。全ては舞台装置。浅草公園の外灯さえも、全て。その外灯に舞う羽虫さえ。特に演出はなくとも、かれらは毎晩踊り続けている。(芥川龍之介のレーゼドラマ「浅草公園」を、補足としてこの段落の最後に付け加えておかなければならない。)
演劇的効果。ここではどのような存在も「暫しかがやく」ことが叶う。例えば現浅草の風物に滅入りながらも、今日もまたその中に繰り出して自分のためだけにも哀しみを拾い上げようとしている、売れない三文詩人でも。煙草と浪漫の吸い過ぎで夜の中空にかの十二階の幻想している、安物書きのルンペンでも。

 3

 青春といえば綺麗だが、実際それほど綺麗事ではないということを知っている。しかしそもそも綺麗の裏側を知っているので、辻褄は合う。「薔薇いろ」もそうである。「友」も「娯楽」もそうである。知りながら生きている。その営みの底に流れる、ひとすじの神妙。
それはこの歓楽地を描くための、ひとつの銀色の鍵かもしれない。もっとも古くて錆びついているので役には立たないが、きっと握りしめていることが大切な類。感覚。やはり、匂い。

 4

読まれることで生まれてくる都市と、都市から生まれる文字。前者はそれこそ幻燈に近い。図版入りの空き箱は書物に相当する。光やレンズはそれら心象。しかし後者はその都度燻り出すものを固形物にしなければならないので、つらい。
 それでも書き留める作業から、はじまる。それはある意味拙い伝達であるからこそ、文化史に反して、写実以上のものを伝える。よってそれはまた哀しい運命を持ち、人間の各自の個性を有している点で歌というものにも近いだろう。幻燈によってのみ語ることのできない映画史があるように。
 そしてもうひとつ忘れてはならないのは、都市にある文字である。活動する写真以前に、そこにあるもの。佐伯祐三が描いたパリの風景画のような、文字さえも踊り出す世界。どのような媒体に刻み付けられたとしても、この文字が、この詩の中で「The Art Photograph とぞ読まれぬる」限りは、ここにかつての浅草はあるのだ。

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批評は以上となります。
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