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【江戸川乱歩『人間椅子』】創作と批評の在処


江戸川乱歩『人間椅子』


※本作は重大なネタバレを含みます。ご了承ください。

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齋藤圭介 評


 『人間椅子』はその題名とは裏腹に時として二足歩行で「ひとりあるき」しながら場合によっては作者名よりも先にいつの間にかフロントで受付もせずに記憶のロビーに忍び込んで、ちょうどそういう待合室で流れているようなどこかで聞いたことのある音楽のような具合で、日本文学の名作とひとつとしてその中身の存知の如何に関わらず多くの人間の中の知識の暗室に普及して設置されているようなものであるという印象がある。よってまた様々な考察や読み方がなされてきた傑作であろうとも思われるが、今回わたしが注視してみたいと思ったのは、この物語自体が有している生命感の怒涛ではなくて(それだけで読者を完全に惑わせ魅了するものなのだからそれ以上のことはないのであるが)、この物語中に登場する哀れな物語作者である「私」が――正確に言えば、哀れな「私」を描いた物語作者が――ここで描いた「私」自体がもとをただせばひとつの創作であり、それも批評を期待されて創作された物語だということである。
 この創作物を一読した閨秀作家は、その後批評文の返信をしただろうが。――こんなことを考えるのは、無意味なことだろうか。あるいはこの物語が完全に物語中のひとりの読者を惑わせていたのだとすれば、それがまた顔の見えぬもう一人の作者の巧みな差し金だとすれば、そこにはどのような意図が読み取れるだろうか。
 こういう物語上の演出について詮索するのは野暮かもしれないが、しかしわたしが今回このような偏狭な視点を持ち出したのは、この物語のおもしろさについてどのようにおもしろく言葉を並べようとしても、この作品は軽量化以前の時代の重みを持つ骨董家具のように動じないからである。
折り畳みのガジェットでは実際の人間一人は内蔵できないので、こういう文学はふんだんに時代の空気を呼吸してこその文学であると思う。語彙も表現も、建築や家具の翳も、犯罪性も管理の甘さも、血の通っていない内臓ではない生々しさがある、しっかりとその中に人間の呼吸を内蔵している、大正の文学であると思う。
 そしてわたしが「批評」という些末な視点でこの作品の中に潜り込んでみたときに見えた視界は、まさしく覗き穴のように矮小なものであった。わたしはその覗き穴から、自分の力量で見える範囲のものを見た。内装を、照明を、人間を、行動を見た。それは哀れな物語作者である「私」の血肉そのものであった。きっと創作という調度品は、じゅうぶんに人間一人をその中に潜ませることのできる構造そのものなのである。それは時として恐怖であり、不気味であり、奇怪である。
 そこで批評という天秤が持ち出される。創作者は特定の一人あるいは不特定多数の読者を想定することで、覗き穴付きの創作者の巣窟に客人を招き入れようとする。そしてそこから生み出されてくる返信を希求することで、背徳感に揺さぶられながらも最後には安心感を得ようとする。それは子供が嘘をつくことで現実を一時逃れしようとする企みにも似ている。物語は創作者の秘密の住処であり、批評はその均衡を保つ鍵である。そうも思える。
視界にはどうしても死角がある。それが覗き穴であった場合には、尚更である。『人間椅子』の場合にも、例えば批評という観点から物語を読み進めてみると、それはたしかに深読みのきらいもあるかもしれないが、批評というものが持つ文脈や役割、あるいはそれによって椅子や建築の一つ一つの描写も、また違った角度からとらえられるかもしれない。
 死角にこそ犯罪は巣食うものであろうし、犯罪者はその死角を常に詮索し、名探偵はその影を常に捜索する。創作と批評の関係も、そんなところにあるような気もする。血が流れないかわりに人間の足跡を証拠として残しながら、その駆け引きは仮面をつけた「もう一人の作者」が仕掛けた罠によって(意識的も無意識的にも)常に操られている。よって些細な遺留品を批評してみようとすることもそれが犯人の残した所有物である限りは、人物の特定とまではいかないまでも、追跡の一部分を補う推測の一例ぐらいにはなるはずである。『人間椅子』の真犯人は、おそらく、これからも発見されないのだから。

 ここからは余談であるが、日本において作家が私室で椅子に座って創作をするようになったのは、時代でとらえればごく最近のことではないだろうか。こういう生活様式の変化については不勉強であるけれども、寄席も芝居小屋もむかしは椅子席などひとつもなかったことは浅学のわたしも知っていることである。旅に病んでというような矢立の文学も、病床六尺の文机の風景も、記念されるべき遠く久しいものになってしまった。
 正座という身体的な変容さえも日常にしてきたこの国において西洋化による機能的な変化のひとつがこの椅子という文化だとすれば、椅子の登場と普及は文学史においても見捨てられないものであると思う。時同じくして建築も変わり、もちろん新しい群衆も登場した。日本における探偵小説も。そして批評というものも。――こういうことは、おそらくこれまでもずいぶん研究されてきたのであろうし、わたしはミステリーの専門家でも到底ないので恥ずかしい限りなのであるが、わたしは今回この文章を書きながら、椅子・推理小説・批評というこの三つが、妙に響きあうように感じたのである。
 『人間椅子』においても、まずはこの物書きの書斎に椅子がなければ、はじまらないのである。そもそもそのような和洋折衷というような建築がそこになければ、はじまらないのである。この婦人が最後に「無意識に立上ると、気味悪い肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ来ていた。」というのも、これも深読みかもしれないが、それなりの意味が読み取れるような気もするのである。
 椅子も推理も、そして批評も、ある程度合理的なものであるとすれば、それらは人間が腰を下ろすという流儀のもとに成立するようなものではないだろうか。――そんな幼い推理を働かせてみる。
 例えば創作作品は、一人もしくは多数の読者が想定され、批評を希うときしてはじめて、現実の「腑に落ちる」。だから批評という行為は、あるいは批評と言わず、創作から生み出されるあらゆる散文は、それを理解されるか、されないか、返信があるか否か、そういうことは別としても、未だ二足歩行の物書きたちの持続性と身体性とを救出するものであると、わたしは思う。きっと批評とは、筋の通らない噂でもなければ実体のない幽霊でもないのである――というようなことを気障に言ってみたのは、批評グループ「天使の梯子」は一応批評というもの扱っているサーヴィスであるから、今回は無理にでもそんなところを踏まえてみたかったのである。
 どのみち不勉強のわたしはどうやらまだまだこの批評の椅子には、深く腰を下ろすことはできないらしい。最後に、自分に対してそんな推理をしてみる。


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批評は以上となります。
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