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繊月『その日の天使』【お題文学企画「その日の天使」】

繊月『その日の天使』

齋藤圭介 評

その日の天使がいるならば、情け無い。生活。あるいはあらゆる日常のこそあどに天使を名を持ち出して、これもそれも、あれもどれもにその語彙を湯水の如くに浪費しているのであれば、それはそれで面目ない。詩。あるいはやはり、生活。

かなしみは単純だが、どうやら単純な言葉ほど単純ではない、かなしみがあるらしい。よってそれは詩法であって、詩的な生活によって鍛錬される類の、鉛の、鉄の、木炭の、鋼の、羽根である。それは敏感である。鋭利である。たまにべたべたする。八木重吉が思い出される。

天使は、いる。そう思って表現される言葉は、違う。近くで見るほど曖昧に、遠くから見るほど覿面(てきめん)に、ふだんの言葉とは分けられなければならない。

独語では虹色の事を、Regenbogenfarbenと云う。れーげん、ぼーげん、ふぁるべん、と云う。日本語ではただ単純に「にじいろ」というものを。

虹はどうやらただの現象であって、虹色はその現象のみてくれ。そういう自分勝手な現象の一つが言葉の羅列であって、それがどのような色彩や感情に分類されようが差し支えない。後付けの純心や希望は言葉の上では通用しない。少ないとも詩語の世界では、慈雨でさえタールなのかもしれないのだ。

そうだ。思い出した。例えばたばこだってそうだ。誰しも羽根をむしりながら、吸っているのだ。むしる音こそもう聞こえないが、リフレインや音韻やたまにその音を捉える。あるいは簡単なひらがなの羅列が。

そのときには、虹さえも悪役になる。不完全燃焼の言葉の残滓が机上や抽斗に溜まって、あらゆる不都合が生じる。もちろん、体には悪い。

けれども得る。そのときにこそ。いっときの、白い生活を。束の間の詩を。四文字以上のかなしみを。その日の、天使を。


(創造的な批評として)

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