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【3分小説】一時停止

 午後8時、男は黒い自家用車で道路を走っていた。ちょうど今日の仕事を終えて帰路についているところだ。明日に回した業務のことを考えながら、男は半ば無意識に車を運転していた。
 そうして自宅近くの信号のない交差点に差し掛かかると、男は少し憂鬱ゆううつな気持ちで車のスピードを落とした。男はこの交差点に嫌な思い出があったのだ。ここ10年近くは通過するのを避けていたのだが、いつも使う道が工事で通行止めだったのでこの日は仕方なく通ることにしたのだった。
 徐々に男の車が交差点に近づいていく。ふと、男は交差点の真ん中に人影を認めた。どうやら背格好からして少年のようだ。小学校高学年くらいだろうか。すっかり日が暮れて周囲の灯りは車のライトだけだったが、少年の周りだけ薄ぼんやりと明るくなっているように感じる。
 男はゆっくりと慎重に車を前進させていった。不思議なことに少年は車が近づいても全く動こうとしない。男は不審に思いながらも、交差点前の一時停止ラインで車を止めた。
 すると、少年の姿がすっと消えた。どこかへ走っていったわけではない。本当に煙のように姿が消えたのだ。
「どういうことだ」
 男は恐怖を感じながら、それに抗うように声を出した。ただでさえ摩訶不思議まかふしぎで恐ろしい体験なのに、それがこの交差点で起こるなんて……。
 男は車を発進させてそのまま帰宅した。その夜、男はなかなか寝付くことができなかった。


 翌日の朝、男は恐る恐る昨日の交差点を通ったが少年の姿は無かった。
「やっぱりあれは気のせいか」
 男は少し安心した。最近仕事が忙しく疲れていたせいで、ありもしないものが見えたように感じたのだろう。今度の休みは近場の温泉にでも出かけてリフレッシュしようか。男は週末の頭の中で週末の計画を思い描きながらこの日の仕事を終えた。

 午後8時過ぎ、男の車は昨日の交差点に差し掛かっていた。いつも使う道は今日一杯通行止めだった。昨日とは別の道を通ろうかとも思っていたが、そうするとあの不思議な現象を認めたことになるようで何だかしゃくに障る。あの少年は気のせいに決まっている。男はそう自分に言い聞かせていた。
 男は少し緊張した面持ちで交差点に近づくと、残念ながら自分の予想が裏切られたことを知った。昨日見た少年が昨日と同じ姿で交差点の中央にたたずんでいたのだ。
 男も昨日と同じように一時停止線に車を止めた。そうすると、やはり少年の姿はふっと消えるのだ。まるで昨日のリプレイを見ているかのようだった。
 男は気が気でない様子で家に着くと、すぐにテレビの電源をつけた。どんなくだらない内容でも構わない。とにかく気を紛らわせたかった。
「明日からは工事が終わって普段の道が使える。あの交差点を通らなければきっと問題ないはずだ」
 テレビを見るともなく見ながら男はつぶやいた。それは、もはや予想ではなく願望であることに男自身も気づいていた。
 そして次の日、男は別の交差点で車を一時停止をしてあの少年が消えるのを見送った。男の願望はあえなく打ち砕かれたのだった。


「おはらいに行った方がいいですよ」
 職場の後輩が真剣そうに言った。真面目な顔を取り繕ってはいたが、好奇の眼差しを隠せてはいない。
「だって、僕もあそこの交差点通りますけど、謎の少年なんてみたことないですもん。きっと、先輩は呪われてますね」
「本当にお前は見てないのか?」
「嘘なんてつきませんって。良く効くって噂の神社知ってるので紹介しますよ」
 男は普段はおはらいなんて信じていなかったが、わらにもすがる思いで後輩の紹介を受けることにした。


 週末、男は神社でおはらいを受けていた。神主が何やら儀式のようなことをやっている傍ら、男はじっと座ってあの事故のことを思い出していた。

 10年ほど前、家の近くの信号のない交差点、すっかり日が暮れた時分であった。別にお酒を飲んでいたり、スピードを出しすぎていたわけではない。ただ、いつもより多く信号に捕まっていたのでほんのちょっと苛立ちが募っていた。そして、一時停止をせずに交差点に進入し、自転車に乗った少年と接触したのだ。自転車のライトは故障しており、ヘルメットも被っていなかった。結果的に、少年はそのまま不幸にも還らぬ人となってしまった。

 最近交差点で見かけるようになった少年は、あの時の少年と同じくらいの年齢に見える。


 おはらいを終えた次の日、男は交差点に向けて車を走らせていた。それなりのお金を出しておはらいをしたものの、男の中では不安の感情が優勢であった。
「これでもだめだったら、どうしようかな……」
 男は弱気のまま、いよいよ交差点に差し掛かった。果たして、不安は的中していた。相も変わらず交差点の中央にたたずむ少年の姿が見える。
 男は初めは恐怖やら不安やらの気持ちが感情を占めていたが、次第にふつふつと怒りの感情が湧き上がってきた。なんで俺がこんなことで煩わせられなければいけない? こんな幻想にびくびくしないといけない?
 男は鬱憤うっぷんを晴らすかのように車のアクセルを踏んだ。一時停止線を越えて、車がスピードをだしたまま少年に近づき、そして通過した。
 通過の瞬間、衝撃に備えて体が強張ったが、結局何かにぶつかったような衝撃はなかった。
「やっぱり、ただの幻覚だ! なんてことはない」
 男は高揚した気分のまま走り去っていった。



「あ、教授、あの男一時停止違反しましたよ」
「そのようだな」
「効果があると思ったんだけどな。少年の姿を交差点に投影すれば、普通はびびって車を止めますよね?」
「普通はな。ただ、今回の実験は過去に重大事故を起こした人物に限定しているから、少し想定とは違う結果になったのかもしれん。それでも、他の実験ポイントの結果も合わせれば全体として一時停止率は上がっているよ」
「一応安全運転を促す効果はあるってことですね」
「そういうことだ。なあに、初めから望む結果が得られる実験なんて存在しないさ」
「交通事故ゼロの社会に向けて試行錯誤あるのみ、ですね」

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