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【3分小説】睡眠負債

「ふぁー、もう寝よう」
 日曜日の午後10時半、男はいつものように床についた。仕事の疲れから、男は毎日泥のように眠りにつく。そうして、気が付いたら朝を迎えるのだ。
 しかし、この日は様子が違った。男は夢をみたのだ。もちろんただの夢ではない。いやに意識がはっきりとしており、自分が確かに眠りの中にいるということが認知できた。
 夢の中はただただ真っ暗な空間が広がっており、自分の体が宙に浮いているようだった。自分がどこを向いているかも分からないような不思議な感覚の中で、男は声を聞いた。
「こんばんは。オレは悪魔だ」
 変な夢を見るものだ。疲れているのだろうか。目の前に現れたのは黒いスーツを着たサラリーマン風の男……に見える自称悪魔だった。暗い場所で黒いスーツを来ているので、誠実そうな顔としなやかな手先が浮いているように見える。
 男は一つ咳ばらいをして、こちらからも声を出せることを確かめてから言った。
「こんばんは、悪魔さん。私の命でも奪いに来たのですか。私はまだまだやりたいことがあります。できれば他をあたってはくれませんか」
「何をいっている。オレが欲しいのは命なんかではない。睡眠だ」
「不思議なことをおっしゃいますね。睡眠がほしいのなら眠ればいいじゃないですか」
「お前こそ何を言っている。どんなに頑張っても1日24時間しか眠れないではないか。だから、オレは他の奴から睡眠を奪っているのだ」
 滅茶苦茶ではあるが筋は通っている、と男は思った。同時に、こんな荒唐無稽こうとうむけいな話を一理あると感じたこと自体が何だかおもしろく、にやりと小さな笑みがこぼれた。悪魔は続けて話し始めた。
「そうだな、とりあえず3時間分の睡眠をもらおうか」
「ちょっと待ってください。ただ睡眠をあげるだけではこちらが一方的に損をしてしまいます」
「ふむ、それもそうだな……。ではこうしよう。睡眠時間1時間につきこれを1枚やろう。この紙は価値があるものなんだろう?」
 悪魔はこの国の最高額の紙幣をヒラヒラさせた。話の分かる悪魔だ。どうせならもう少し欲しいが、悪魔の気が変わってはいけない。
「わかりました」
 悪魔はニヤッと笑った。そして、紙幣をクシャクシャに丸めて男の方に放った。
「契約成立だ」


 目が覚めた。変な夢だったと思い返しながら体を起こして時間を確認すると午前3時半だった。男はもう一眠りしようとベッドに横になった。
 しかし、しばらく目を閉じても男は一向に眠ることができなかった。眠いのは間違いないのだが、意識がはっきりした状態が延々と続いている。男はさらに15分ほど寝返りを打ちながら格闘した後、結局諦めてベッサイドのランプを付けた。
 本でも読んで気分を変えようか、そう思ったとき、男はランプのそばにの紙切れを見つけた。それは、クシャクシャになった紙幣だった。
 結局、男は朝まで眠ることはできなかった。


 初日は半信半疑であったが、どうやらあの悪魔は本物らしいと男は認めた。悪魔と出会ってから一週間、どんなに眠くても5時間経つと目が覚めてそれ以降眠ることができなかった。そして、いつも傍らにはクシャクシャに丸められた紙幣が3つ置いてあるのだ。
 男は普段8時間の睡眠をとっていたので、ちょうど3時間睡眠が短くなったことになる。さすがに日中は眠くて仕方がないが、普段以上に多くのコーヒーを摂取しながらなんとか仕事をこなしていた。ちなみに、昼寝も試してみたが許されていないらしい。きっちりとした悪魔だ。
 もちろん、睡眠時間が短くなった分お金に余裕はできた。いつもよりちょっと贅沢な食事もできたし、趣味にも気兼ねなくお金を費やせるようになった。半ば無理やりな悪魔との契約ではあったが、男は今の生活を次第に受け入れ始めていた。


 日曜日の夜、もうちょっと体力的に楽な仕事に転職でもしようか、などと将来についてあれこれ考えているうちに男は眠りについた。そして、またあの夢をみた。
「こんばんは。オレは悪魔だ」
「こんばんは、悪魔さん。何かご用でしょうか」
「お前の睡眠はなかなか質が良い。今回からはさらに3時間睡眠をもらうことにした」
 つまり、1日の睡眠時間が2時間になる計算だ。男はさすがに待ったをかけた。
「そんなに睡眠時間を取られてはこちらの体がもちません」
「大丈夫だ。契約通りこれは増やすからな」
 言いながら、悪魔はクシャクシャになった3つの紙幣をお手玉のように回し始めた。悪魔は愉快そうに続けた。
「しかしオレも鬼ではない。今回追加でもらう睡眠時間は2時間にしてやろう。オレが優しい悪魔でよかったな」
 男は抗議しようとしたが、そこで夢は終わり目が覚めた。時計は午前1時半を示していた。


 3時間睡眠の生活が始まってちょうど一週間が経った。目の下のクマは男の顔の一部として定着し、疲れから別人のようにやつれていた。仕事も満足にこなすことができず、趣味を楽しむ元気もない。次に悪魔と会う時には絶対に睡眠を取り戻すと、男は決心していた。
 そして早く悪魔と話がしたいと祈るように念じながら眠りに落ちた。果たして、夢に悪魔が現れた。
「こんばんは。オレは悪魔だ」
「睡眠を返してください!」
男は悪魔の言葉にかぶせる様に大声をあげた。
「契約破棄したいのか?しかし、これまで奪った睡眠は返せないし、これまで渡したお金は返してもらうことになるぞ」
「そんなこと構いません。とにかく私はたっぷり眠りたいのです」
 悪魔はふてくされたように少しの間沈黙していたが、ぶつくさとつぶやき始めた。
「ふん、大体誰もかれもこの辺で音を上げるんだよな。しかし、オレは優しい悪魔だ。お前の願いを叶えてやろう」
 悪魔はパチンと指を鳴らした。
「契約終了だ」


 目が覚めた。男はまぶしい日の光を感じながらゆっくりと体を起こした。時計は午前11時を示している。男は大きく伸びをした後、立ち上がってリビングへ向かった。
 寝ぼけまなこであたりを見回すと、部屋が荒らされていることに気が付いた。引き出しや鞄の中身がそこら中に散らばっていたのだ。きっと、泥棒が入ったのだろう。
 警察に連絡しようと机の上に置いてあった携帯電話の画面を見ると、会社から何件もの着信があることを確認した。今日は仕事のある日だ。当然、男の勤務開始の時間は過ぎている。
 男は少しの間画面を見つめた後、面倒くさくなって携帯電話の電源を切った。警察に連絡しても犯人は捕まらないだろう。おそらく相手は悪魔なのだから。それにあの悪魔は優しい悪魔らしいから、きっと私に渡した分のお金しか盗ってはいないだろう、と男は楽観した。加えて、男は会社のこともさほど気にしていなかった。男にとって今最大の優先事項はそんなことではなかったのだ。
 男は久々の充実した睡眠の満足感に浸りながら、大きなあくびをした。
「ふぁー、もうひと眠りしよう」

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