見出し画像

【3分小説】神さまの涙

 男は古びた窓から外を眺めていた。少し薄暗い夕暮れ前、今日も雨が降っている。
 男が暮らしている町は、雨が多いことを除けばごくありふれた町だ。決して裕福ではないものの、農作物が良く育つ気候のため暮らしには不自由していない。そんな取るに足らない町ではあったが、一つだけ特徴があった。
 雨が青いのだ。それはもう美しく澄んだ青色で、他の地域の人々からは「神の青い涙」と称されている。
 しかし、雨の色などそこに住む男にはどうでもよいことだった。もはや日常の風景であり、何の感動もない。ただ、青い雨は植物には恩恵があるようで、雨の色が変わってから作物の収穫量が増えた。その点について言えば、男も神の恵みを感じていた。


 ふと、視界の端に大きなレインコートを着た大男が目に入った。「大男」とイメージしたが、決して見た目で性別が分かるような格好ではない。身に着けていたレインコートは重厚で、顔も含め体全体をすっぽり覆う防護服のような代物しろものだったからだ。有毒ガスが蔓延する場所に踏み込んでも生還できそうだ。
 レインコートの大男がこちらに気がついた。少し立ち止まったあと、動きづらそうにのそのそとこちらに歩いてくる。ノックの音が響いた。
「すみません」
 男性の声だった。男は少し悩んだが玄関のドアを開けた。この町にやってくる人にまともな人はいないだろうが、暇つぶしくらいにはなるだろう。
「こんにちは。何かご用ですか?」
 男は尋ねた。レインコートの大男は先ほどより明るい声で答える。
「いやいや、用というわけではないのですがこんな所に人がいると思わず。ぜひ少し話をしたいと思ったわけです」
 大男は言いながら、ハッとした顔を見せた。
「すみません。こんな所とは失礼な言い方でした……」
「いいんですよ。住みたくてこの町に住んでいる人はいません。それよりあなたはなぜこの町に?」
 大男は気を取り直して答えた。
「この町の雨の研究をしているのです。この雨はきっと我が国の役に立ちます」
 誇らしそうに答える大男の胸に、男は軍のマークを見て取った。役に立つ……か、確かにそうかもしれない。


 青い雨には毒がある。初めて青い雨が降った日、興奮して外を走りわまった町の人たちはみんな亡くなった。次の日も青い雨が降った。その次の日も青い雨が降った。そうして、ほとんどの町人は、遠くの町に引っ越したのだ。残ったのは、私のように病弱で行く当ての無い人くらいである。
 私の命も長くないだろうと思っていたが、青い雨は一度に大量に飲んだり浴びたりしない限り、すぐ死に至ることはないらしい。私が生きながらえているのがその証拠だ。


 大男は続けて切り出した。
「あなたのようにこの町に住んでいる人は貴重です。どうです、ぜひ我々の研究にご協力して頂けませんか? 今より良い暮らしはお約束しますよ」
 男はほんの少しだけ考えた末、首を横に振りながら答えた。
「私は小さいころか体が弱いので、残念ながらお役にはたてそうにありません。最期までこの町で静かに暮らすつもりです」
「そうですか……」
 大男は残念そうに続けた。
「それでは仕方がありませんね。また近くに寄ったときにでも声をかけます。気が変わったらいつでもおっしゃってください」
 男は別れの挨拶をしてドアを閉めた。そして、再び窓の外をぼんやり眺め始めた。雨の日はできることが少なくて手持ち無沙汰なのだ。
 しかし、この平穏の日々ももうすぐ終わるかもしれないなと男は思った。先ほどの軍の男が私のことを本部に報告すれば、次には強制的に連行される可能性も十分にある。


 そんなことをしばらく考えていると、窓の外に再び人影が見えた。今度ははっきり女だと分かった。防護服のようなレインコートも着ておらず、傘すらさしていないのだ。この雨のことを知らないのだろうか。女はゆっくり、ゆっくり歩みを進め、そして、しばし立ち止まったかと思うとそのままドサッと地面に倒れこんだ。
 普段の男なら見て見ぬふりをしていただろう。しかし、自由な生活はもう長くないかもしれない。寿命だってすぐそこまで迫っているかもしれない。だったら最期に人助けをするのも悪くない。そう思った男は、レインコートを羽織はおって女のもとに小走りで駆け寄った。
 男は何とか女を家に連れて入り、できるだけの介抱をして自分のベッド上にそっと寝かせた。ひとしきり作業をした後、男はどっと疲れがこみあげてきてソファに座り込んだ。正直なところ、助かるかどうかは女がどれくらい青い雨に濡れていたかで決まるだろう。
「神のご加護があらんことを」
 男はかすれるような声でつぶやくと、そのまま眠りに落ちた。


 目を覚ますと、窓から日がさしていた。次の日まで寝てしまったらしい。うとうとしながらベッドの方に目をやると、昨日の女の姿がない。
 寝起きで働いていない頭で想像を巡らせていると、ソファの前の小さなテーブルに1枚の書置きを見つけた。きっと元気になってもう家を出てしまったのだ、と男は思った。雨は夜中の内に止んだようだから、雨に打たれることなく町を通り過ぎることができただろう。
「きっと大丈夫」
 男は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。女に青い雨のことを警告できなかったことを少々不安には感じたが、それでも一人の命を救うことができたことに対する満足感のようなものが男を満たしていた。
 男はテーブルの書置きを手に取った。書置きにはこんなことが書いてあった。


 あなたは悪魔です。これから天国へ向かう私の邪魔をし、現世に留まらせようと誘惑をしかけてきたのでしょう?
 しかし、幸運にもまだ神の涙は地上に注がれています。
 あなたが目を覚ましたころには私はあなたの手が届かないところにいるでしょう。私はあなたに打ち勝ったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?