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「生きてさえいればいい」というわりに世間は厳しいよね

 みなさんは、ドラマ観てますか?

 僕は珍しく今期は三作品も観ています。
 
 その一つが日曜の十時から放送されている「日曜の夜ぐらいは…」というドラマで、これがめちゃくちゃ面白くて。

 岸井ゆきのさん目当てで観始めたんですが、肌に合うというか、エッセイを読んでいるような心地よさがあって久しぶりにハマってしまいました。

 そのドラマの中で、今週も名言があって。
 
 めるること生見愛瑠さんが演じる「若葉」という女の子が、小学生の時に書いた詩の内容が祖母によって明かされるのですが、それがすごくよくて。

 その内容は、「日曜の夜に死にたくならない人は幸せな人だと思う」というものでした。

 学校の先生からは暗すぎるという理由で低評価をもらっちゃうのですが、それを聞いたおばあちゃんが、孫の代わりに学校に乗り込んで先生に文句を言ってやった、というエピソードが作中では語られていました。

 「死にたい」っていう言葉は同じ温度でそう思っている相手には激しく伝わりますが、そうでない人間にとってはただのネガティブで重い聞きたくない言葉になるんだろうと思います。
 自分が「死にたい」とそれほど思っていないときに、Twitterで「死にたい」と呟いている人を見ると、普段の自分を棚にあげて「やってんな」と思ってしまう自分も確かにいて、それはそれで嫌になるんだけど、だからこそ「死にたい」という言葉に嫌悪感を示す人の気持ちもよく分かるんです。

 でも死にたい時はあるし、こまめにストレスを発散できない私のような欠陥人間にとっては、死にたいという言葉は最後の砦というか奥の手のような呪文になっています。
 痛みが基準値を下回るまでは、口癖のように使ってしまうから、傍目には伝家の宝刀を振り回している奴にしか見えないんだと思います。

 「生きてるだけでいい」「生きてるだけで丸儲け」という言葉はよく聞きます。でも「生きてるだけ」ってわりと難しい気がしません?

 「何歳までにこれをした方がいい」とか「時間があるなら努力をするべきだ」とか「偉い偉くない」とか「かっこいいかっこよくない」とか、いろんな基準で世界は満ちていて、他人からその基準を押し付けられて嫌な気持ちになることもあれば、自分で自分を「やっぱりダメなやつだな」と判断してしまうこともよくあります。
 「ただ生きる」とはそういう価値を超越してしまうことであって、それはもう悟りを開くことなのです。めちゃくちゃ難しいのです。
 
 「生きてるだけじゃ価値がない自分なんか死ね」という声を塗りつぶすように、「生きてるだけでいいんだよ」と自分を慰めても、その声はなかなか身体の芯までは届かなくて、相反する二つの声に引き裂かれそうになってどんどん辛くなっていく、みたいな状態に陥ってしまう人は多いんじゃないでしょうか。
 
 今の僕がまさにそうです。だから日曜の夜中にポチポチとこんなことを書いています。

 二時には寝るって一週間以上前から決めていたのに、もう三時半になってしまいました。
 たぶん明日もギリギリの時間に出ていくことになると思います。

 みなさんは明日なにをする予定ですか?
 みなさんはどこに住んで、どんな仕事をされているんでしょう?

 生きたくない人の魂から毒されていない部分だけを取り出して、それを百人分くらい集めて一人の人間に還元すれば、その人はかなり真面目に生きていけそうな気がします。

 おやすみなさい。

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