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自分の心の景色

物心というか、人の記憶として認識されるのは
強烈なイメージのあった幼少期の記憶が断面的に思い出されることである。
自分の記憶を振り返ると1番思い出に残っている景色は
田んぼの中で遊んで親の仕事終わりを待っていたことと
親の車に何時間も乗って仕事について行き
車の窓から変わり映えもしない田舎の景色を眺めていたこと。
今思うとよく何時間もやることもなく車に乗っていたんだろう
家にいた方がもっと遊んだりできたのに
そうしなかったのは
家にいたくなかったからかもしれない。
自分の家は古い長野の一軒家。
昔から農家で生計を立てていた家だ。
祖父は地域の活動にも熱心で、母に聞くところによると
町会議員に立候補するほどだったらしい。でも祖母の反対で断念。
祖母は、あまり働いている姿は見ていない。本当に農家の仕事してたの?と
小さい時から思っていた。
この祖母と私はとにかく折り合いが悪い。
そんな関係だからか家にいたくなかったのかも。
母は、どこか掴みどころがなく人に対してオープンでも
人は人と割り切っていて、とにかく行動的、悩むより体を動かし
現状を打破してきた逞しい昭和の人間だ。
母のように逞しく人生を歩んでいる人と真逆な祖母は
とにかく母の批判を私たち子供に言う人だった。
仕事で帰りが遅いと文句を言い、家事ができてないと
言う。夕飯の時間も20時になることもよくあった。
毎日お腹空いて母の帰りを心待ちしていた私に
祖母は、あんたのお母さんは家のことは何もやらない食事も
遅いから待てない、私は先に食べるからと
小学生の子が我慢しているのに先に朝の残りのご飯に
きなこをかけて食べてしまう。
私は3人姉兄の末っ子で、姉と兄と私で、祖母に何度も
待つようにいうが聞いてくれなかった。
その後、大急ぎで夕飯の材料を買った母が帰宅し
ご馳走を作ってくれる。
すごくお腹空いていたので
そのご飯は美味しくて美味しくて。
家族で遅い夕飯を食べていると、祖母は
母に、自分はあんたが遅いから先に食べて
おかずもなかったよ。と嫌味を言うのだ。
その嫌味を毎日聞かされて、自分が待っていればいいじゃんというと
時間通りに食べるのは変えたくないという。
とにかく意地悪で自分のことしか考えない祖母だった。
私の幼少期の目にはそう映っていた。
とにかく祖母がいるだけで、雰囲気が悪くなり
家にいたくなかった。
子どもの世話もしない。何も家のことも農家の仕事もしない。
何もしないのに文句ばかり言う。
そして嫌味を欠かさず言う。
自分はしないのに、お茶を淹れろ
あれをしろと指示してくる祖母が大嫌いだった。
そんな大嫌いな祖母とは戦いも頻繁にした。
姉と兄には、そんなに嫌味を言わないのだが
私にはいつも言う。そう私は感じていた。
どうして私には、きつく言ったり嫌味をいうんだろうと考えてみると
祖母は、私に色々と反発されたからだと思い返してみると感じる。
姉と兄は聞き流すのが上手かった。相手にしなかったのだ。
私は毎回、祖母の発言にカチンときて
戦いを挑んだ。なぜそんなこと言うんだ!意地悪だ!自分がやればいいのに
人に頼るな!私の目には祖母は怠けているように見えたのだ。
でも、大人になった今、年を重ね体調も思わしくなく
祖母は祖母なりに、思い通りいかない体にイライラしていたのかもしれない。
でも、そんなこと小学生の自分は知ったこっちゃないのだ。
また祖母に対して不信感を持つような出来事が
私が小学生の頃によくあったからそれも嫌いに拍車をかけていたのかもしれない。その頃の記憶小学4年生だったと思う。
祖父が亡くなったのだ。私にとって初めての身近な人の死。
小学校で3時間目の時間に呼び出され祖父が亡くなったから
帰るように先生に言われた。学校の玄関では、2つ上の兄と
隣の中学に通う姉がいて
近所のおばさんが車で迎えにきてくれた。
家に着くと、祖父は亡くなってすぐの為、医者が死亡確認をしており
その祖父の横で父が大泣きしていたのだ。
父が泣くのをみたことがなかったので子供のように声をあげて泣く姿に
驚いてしまったことを覚えている。
私は父に対しても不信感を持っていた子供だったので
いまいち父の気持ちに寄り添えなかった。
当時の田舎の葬式は、家で執り行うことが多く
弔問客を迎える為に、家の大掃除、食事の準備など
悲しむ間もなく、家にたくさんの人、主に近所の奥様たちが押し寄せてきて
家を片付けていく。他人の家にみんな上がり込んで
片付ける。
とりあえずスペースを作るためいらないものは階段や2階に運ぶよう言われ
荷物を運んだり、自分のものを移動したり
悲しみに暮れている暇はない。
すぐに外に火を焚き、天ぷらを揚げたり
団子を作ったり、とにかく台所にエプロンをつけた近所の奥様
父の兄弟、そのお嫁さんが大集合するのだ。
その時、父の兄弟たちが母の悪口を言ったりする。
そんな話を子供達の前で平気でする無神経な大人たち。
だから私は父の兄弟やそのお嫁さんたちが嫌いだ。
なぜ、子供の母のことを悪く言えるのだ?輪をかけて祖母も
その悪口に加わるのだ。
今振り返っても母は本当に逞しい。
あんな環境だったら離婚してもおかしくない。
みんな敵なのだ。あまりにひどいバカにしたり嫌味を言う父の兄弟に
毅然と言い返し、それ以上言わせない一言を放つ母は
かっこよかった。頭が切れるのだ。ぐだぐだと頭の悪い兄弟に
いつも何も言わない父。でもここぞという時に、母が放つ言葉は秀逸で
黙らせる力があった。そんな感じだから余計目の敵にされていたのかも
しれないが、私はそんな母を子供の頃とても誇らしくかっこいいと
思っていたのだ。だって行動が伴っていた大人だったから。
口先で言うだけの人より、行動していた母の言葉は説得力もあり
話術も素晴らしかった。
あとで振り返って当時の話を母とすると
母はそんな話術を買われ、営業の仕事を長く、やっていたのだ。
化粧品、保険、様々な営業の仕事をしていた。
私は、話術や説得力があるからこそその仕事をしていたのかと
思っていたが、母の職業の選択条件は家族のケアができるよう
自由な時間で働けるために選んだという。
昔も今も、自分のやりたい仕事よりも家族のためにとその事を第一
優先させてきたのは女性なんだと思う。
その頃を振り返る時に、母は、決して恨み言や後悔を口にしない
どの仕事も楽しかったというのだ。
本当に前向きというか逞しい人だと年齢を重ねる度に思う。
自分だったら耐えら得れない環境だったと思うし、
自分の時間はほとんどないに違いないはずだ。
毎日20時まで仕事し、夜、私たちを寝かしつけた後に
内職までしていたのだ。
学校で必要なものは必ず準備してくれたし、
とにかく貧乏だったけど、貧乏に見えない暮らしをさせてくれたのは
紛れもなく母である。その姿を子供ながらに感じていたから
母の悪口を言う父の親戚たちは大嫌いだったのだ。

祖父が亡くなってからある事件が起きた。
遺産問題だ。お恥ずかしい話、大した遺産ではない現金にして100万だ。
それと今住んでいる土地。それだけ。
父は7人兄弟の6番目
昔の家なのに、長男は家を出て町内の違う地域で暮らしている。
この長男も色々問題があるらしく
農家を継ぐことは嫌で、結婚した嫁は同居を断り
別の場所に家を構えたのだ。
長女は、埼玉に嫁に出たが、結婚後旦那さんがなくなり
3回ほど事実婚のような感じで男に頼り生きてきた人。
自分で人生を切り開くのではなく人に頼って生きていきたい人なのだ。
次女は、祖母そっくりの性格の悪さ。
驚くぐらい性格がきつい人物。
次男は愛知に住んでいるが、お嫁さんに財布を握られて
何も発言できないし、ストレスのせいなのか顔にできものがすごい人物で
顔がひどい状態なのだ。
3女は東京に住んでいるが、足が悪く特に、協力的でもない。
3男は父である。
末っ子は4男の行動は伴わず口だけの人物。
口ではいろいろいうが何もしない。典型的な末っ子気質な人物で
人への感謝はない人だと当時の私は思っていた。

葬式後に遺産の話し合いが行われた。
その話し合いでは、とにかくお金がほしいということを
みんな言っていて、祖母のことは何も考えてない。
いま思うと、うちの父は3男なのに、どうして同居していたのかと
思う。それぞれの事情があるにせよ
家に残り、祖父、祖母の世話をしてくれた私たち家族に対して
感謝の気持ちが全くない兄弟たちだった。
それが祖父が亡くなりはっきりとわかったのだ。
父と母がいない時に、
家に来ては、祖母に取り込みお金を欲しがる兄弟
特に近くに住む末っ子のおじさんがひどかった。
末っ子ということで祖母もとても可愛がっていたので
そこに漬け込み、自分優位になるように話していく。
主に、私の父母の悪口をいう。日中の昼間に来るので
家にいるのは、私だけ。挨拶もなくズカズカ上がり込んできて
祖母に悪口をいう。祖母も同調する。よくそこまで
言えるなと思うほど。当時は録音機がなかったので
2人の話を聞き耳を立ててノートに話を書いたりしていた。
そして、父母が帰宅した時に話して聞かせていた。
とにかく、その末っ子のおじさんは
遺産の現金は兄弟で平等に分けるが、うちの土地を欲しがったのだ。
だからうちの家族に出て行って欲しかったのだ。
そのために祖母に取り入り出ていかせる策を練っていたのだった。
その話を聞いていて、胸が痛かった。これからうちはどうなるのだろうと
不安だった。そして最終の話し合いの時に
その末っ子のおじさんが、家を出るよう父に言ったのだ。
残された祖母は、一人家に残り、
順番に兄弟たちが面倒を見るという案だった。
家を出るという話を聞いてうちの家族も新しい場所に引っ越しする
かもしれないと話が出た。
この時、内心嬉しかった。こんな家にいたくなかったし、あの兄弟たちとも
縁が切れる。古い家でなく新しい家に期待が膨らんだ。
しかし、その話になったときに、祖母が泣き出したのだ。
祖母は末っ子のおじさんと一緒に暮らせると思っていたが
通いで来るということに愕然としていた。
この広い一軒家に一人で住むことに不安でいっぱいで
父に涙を流して残ってほしいと頼んだのだ。
結果、一緒に住むこととなり、私の生活は変わらない。
子供の時の楽しみなことは、お正月に母の実家に遊びに行き
お年玉をもらったり、みんなで遊んだりすることだった。
母の実家は、建設業を営んでおり、比較的裕福な暮らしをしていて
お年玉もたくさんくれた。
父の親戚とは真逆だった。父の兄弟たちは皆お金に汚いイメージが付きまとう。
それは、遺産問題があったからに他ならないけど。
とにかく、小学生の時に、なかなか経験できない
大人の醜い人間の姿をたくさんみてきた故に、どこか冷めた部分で
物事をみてしまい、素直に純心に楽しめない小学生だったと思う。

小学生の頃から、大人は自分の気分で決められるし、
尊敬できる大人はあまりいないものだと
うまくやり過ごす方法ばかり考えていたと思う。

父に対して抱いていた不信感とは、自分のことを大切に思ってくれていないと
感じる出来事が多々あった。
成長の節目節目で訪れる機会をことごとく大切にしない父だったから。

小学生の入学式の時もカメラを忘れたこと、
周りの友達は、両親ともに写真を撮ったりしている中
友達のお父さんに頼んで写真を友達と一緒のを一枚撮ってもらっただけ。
ランドセル姿が嬉しくてとても楽しみにしていたのに
家の玄関前で撮った写真だけなんて悲しすぎると泣いた。
あまりに私が泣くので、仕方なく本当に仕方なく
日曜日に誰もいない学校へ行き、記念写真を撮ったりしたのだ。
末っ子だからか節目節目は
蔑ろにされてきてことが辛い思い出として残っている。
中学の入学式でもそうだった。
みんな親と一緒に登校し、集合写真を撮る際に
先に帰ってしまったのだ。帰りに一人で帰る時涙が出そうだった。
また節目に、やってくれたよと一人文句を言いながら
父は、私のことはどうでもいいのだなと思ったのをよく覚えている。
父に関して言えば、大嫌いという感情よりも
父も対して祖母や祖父に大事にされてこなかったから仕方ないんだなと
感じていたので同情もあった。
娘に、生い立ちを同情されてしまっているなんて
父はいまだに知らないだろう。そんなふうに自分の中で仕方ないことだと
感情の折り合いをつけてこれたのは、時折母の仕事について行った時に
父のこと、祖母のこと、理不尽な大人達のことで、やりきれない時に
その人の背景について想いを馳せるないようなことを話してくれたからだと
思う。ほんの少しの時間だったが、いろんな人のいろんな見方を教えてくれたことは
感謝である。その後も大人達に対してはそういった見方で見れるように
なったから。

振り返り、自分の子供の時に感じていた感情を考えると
胸が締め付けられるが、それは私だけでなく
みんなどの子も少なからず感じていたのではないかと思う。
いま自分が大人になり、子供を育てる中で
1番自分が子供の時にして欲しかったことを実行しているが
当時の私にはすごく響いたことも、私の子供は響いてないのかもしれない。
時代も変わり、以前のスタンダードが異質で、
今は、個を重んじることが大事であるが故にその
曖昧なままでも自分を大事に考えることができるのではないかと思う。
自己肯定感とは、他者に大事にされ、自分を愛し、大切に思う気持ち。
その気持ちがあるからこそ、他者に優しくできるのだ。
自分を信じ、大切に思えてこそ、他者にその優しさを向けることができる。

そんな人間を育てていけるように
子供に接することができれば、とりあえずいいのではないだろうか?
自分はまだまだ自己肯定感が高くないので
他者に対して優しさを向けられないこともある。
それを生い立ちのせいにして背を向けてきた大人達にならないよう
自分も気をつけていきたいと思うようになってきた。

まだまだ、自分の心の見える景色が変化していくだろう。
まだ経験したことがないことに直面した時に
どう感じ、どう思うのか?モヤモヤした時ほど、
自分のことを見つめるチャンスに思い、こうやって言語化して
自分の理想と現実を見つめながら歳を重ねていきたいと思う。

10代の自分
コンプレックスの塊みたいだった青春時代で
やるせ無いことばかりで、自分を大事にできなかったから
友達を大事にできず、たくさん傷つけてきたと思う。
自己肯定感が低すぎて、もがき苦しんでいたし、それをわかってくれる人も
いなかったから自分で抜け出すには時間がかかったと思う。
でも、いろんな大人を見て現実を早いうちから知ることができたのは
いい経験だったと思う。

20代の自分
自分の行きたい大学へ金銭的な面で諦めてしまったので
どこか歪んだ状態で消去法で学校を決めてしまったと
後悔してた。でもあの時、自分が消去法だったとしても
選んだのだから最善の選択で、そこで価値観を変えることができた
仕事に就けたのだから、遠回りも全て経験値として
無駄ではなかったのであると思えた。

30代の自分
結婚という節目を迎えて
自分のことよりも子供中心の生活だった。
毎日目標もなく、日々必死に生きていたと思う。
自分の時間が持てなくて、経済的にも自由が感じられなくて
もがき、息をするのも辛かった時があった。
振り返るとどうしてそこまでと思うような感情だったんだけど。
苦しくて、思わず走りに行ったことがあった。
自分一人の時間がやっぱり大事なんだと
痛感した時期でもあり、体調も崩しがちだった。
メンタルは体調と本当に繋がっていると思い、
この時は、ヨガに夢中で取り組み、メンタルを整えようと
していたと思う。

40代の自分
まだ40代になってまも無いけれど、
永遠と思えた人生の時間のリミットを意識するようになったと思う。
いつまでも一緒に行動していたと思っていた子供達も
友達との関係を重視するようになって
願っていた一人の時間が持てるようになった。
その時間のおかげでメンタルの安定が保たれて
目標を立てたり、ゆっくり考えたり
楽しめるようになってきた。

まだまだ人生の折り返し地点であるが、一度きりの人生で
自分という人間がどうしたいのか
どう生きていきたいのか?ようやく、自分のことを丸ごと
受け入れることができたから見える心の景色があると思う。

自分を10代の頃に丸ごと受け入れ許しもっと認めてあげることが
できれば良かったと思う。
自分のことを好きになるには、自分のダメなところも
認めてあげること。この作業は、10代の頃に出来る子と出来な子がいると
思う。その違いは、周りにいる大人達の性質によって
多少違いがあると思う。
手本となる大人が周りにいれば、生きていく羅針盤をもらったようなものだ。
そんな大人が増えれば、自殺する若者も減るのでは無いかと思う。
精神的に追い詰められるような環境に自分で向かってしまうのは
自分という人間を受け入れられないことで追い詰め答えを必死で
探して見つからず心が疲弊するからではないか?
丸ごと受け入れることの大きなメリットを大人が
見せてあげられるように。自分の心の中を整理して子供の頃に感じた
醜い大人の姿になってないか、日々確認して
自分の子供に接して生きていきたいと思った。

自分が子供の時に感じた醜い大人達と
いま自分が同年代になってきていることに当たり前のことだけど
不思議な感情を抱く。
自分の価値観や物事の見える景色の認識
多種多様な人間が出会い多少影響しあい、生きる。

これから50代、60代、自分という人間から見える
心の景色が、これから未来を生きる子供の目に
醜くうつるのか、楽しそうと前向きにうつるのか
自分の日頃の行いや生活を丁寧に暮らしているかで
答えが自ずと出ると思う。

自分のことを最近わかってきた分
より、取扱説明書のアップデートしながら、
毎日を過ごしていきたい。
自分の心の景色がどう見え変化するのか今から楽しみである。

私が小さい時に出会った醜い大人たちは
いまどんな老人になっているのか?
父の兄弟達の今、人づてに聞いた話しか知らないが
幸せな老後を過ごしている兄弟はいないらしい。

長い時間をかけて因果応報になることを
私は知っている。自分の行いが必ず自分に返ってくることも
そのことに気づけた人は幸せだ。
日々の生活を丁寧に暮らし、より心豊かに
生きれるように暮らしていきたい。



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