何でも食べる

スーパーにて相方が「カップ焼きそば!カップ焼きそば!」言うからインスタント麺コーナーに行く。前にCMで見てちょっと気になってたカップラーメンが特売になっているのが目に入る。私も1個買う。帰宅後、ストック棚にカップ焼きそばとカップラーメンを片付けて、なんかほっこりする。「食べてもいいんだよ」ってことに、どこか安堵する。

そう、もともと昔は、インスタント麺とかレトルト食品はそれなりに食べていた。普通の食事代わりにするのはどうか、の意識はあったけど、休日の昼食とか、軽食、夜食的なもの。実家には常に何かしら在庫があったし、家を出てからも週末なんかにはそこそこ食べていた。会社でのランチでも気が向けば食べてたような。

でもそれを、一時ぷっつり食べなくなったのは「自然系」にハマったから。会社を辞めて周囲の環境が変わったことが大きい。それまであまり馴染みのなかった自然派の友人知人が増え、玄米菜食・自然食・オーガニック・マクロビ…などなど、新しい食についての知識を得るにつれ、傾倒していった。もともと興味のない分野ではなかったと思うし、新しい知識は魅力的だから。それが「健康にいい」と聞けばなおのこと、いつしか「添加物は危険」「ジャンクフードは悪」「インスタント・レトルトもダメ」という考えに偏っていった。

調味料はなるべく昔ながらの製法のもの。外国産より国産。なるべく加工品は使わずに手作りで。できるだけ自然なもの天然のものがいい。買い物する時には商品の裏側の原材料をじっくり見て、カタカナいっぱいの怪しい材料が使われてないかチェックする。ジャンクフードもインスタントもレトルトもとんでもない。「こんなに気を使ってる私ってすごいでしょ」と、自分に酔ってる部分もあったな、と、今は思う。

そして、数年くらいの間だろうか。そんなことを続けていく中、ある時ふと、何かモヤモヤしている自分に気がついた。

「ああ、私、楽しくない」
「めんどくさい」

何でいちいち、買い物するのにあれこれ、悩んだり考えなくちゃいけないんだろう?自分でやってることなのに、そんな自分に、イライラする自分がいる。
そう、お菓子コーナーを見ながら思った。子供の頃なんて、何も考えずに「好き!」「これ!」「食べたい!」で、楽しく選べていたのに。あの頃の率直さ、素直さ。いったいどこに行っちゃったんだろう。

確かに、価格を抑えるために添加物たっぷりで大量生産される、安心とは言い難い食べ物があるのは事実だろう。実際にそういった事実を告発するような書籍も多々ある。そういった書籍の影響を受けた部分もある。もちろん、自分や家族の健康のために、安心安全な食べ物を摂りたいと思うのは悪いことではない。でもそればかりが優位になって、「自分はどうしたい?」「何食べたい?」「どんな気分?」といった、自分の心の声を無視して「安全かどうか」だけでがんじがらめになってばかりいたら、やっぱり、疲れてしまう。
食べることって本来、とても楽しいことなのに。

きっと自然派の食も、楽しんで美味しく続けられる人は、それでいいんだと思う。でも私にとって「あれはダメ」「これはいい」と、食べ物をジャッジすることは、本当は苦しいことだった。やりたくないことだったんだなと、今ならわかる。

だから「絶対あれは食べない、これは食べない」は止めた。
食べたいものは、何でも食べる。

ただ、一旦、無意識に何でも食べている状態から離れて、自然な食や添加物の少ないものに目を向けてみたことで、自分なりにできた基準もある。選択の基準となるもの。何をどんな風に食べれば快適か。心身も、味覚も、喜ぶもの。逆に、欲しないもの。「絶対食べない」ものはないけど「これは食べなくていいな」というものはある。それは選ばない。その方が自分が快適だから。

何を選ぶにも、世間の基準や数値・情報ではなく、自分の気分・感覚で選ぶ。

ジャンクなもの食べて「美味しいー!」って単純に喜べる時もあれば、食べたいと思って食べたけど「美味しくないな」って時もあるし「もたれるな、違ったな」みたいな時もある。

体が欲してなくても、精神的に欲してる時もある。
でもそれが必要な時も、確かに、ある。

そんな風に自分の心に体に確認しながら、今日も食べたいものを食べる。

そして食べたくないものは無理に食べない。

基準は私の「気分と感覚」、それで選べばいいだけの話。

体に超いいとされている食品も、
体にあまりよろしくなとされている食品も、

どこからでも好きに選べばいい。

選べるって幸せなことだと思う。

拒否・拒絶ではなく「選択」。

その方が人生いろいろ楽しい。軽い。楽。

風通しいいと、思うんだほんと。

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