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違ったまま存在する

けっこう昔のことになるけど、子なし夫婦に対する批判的なコメントを知人がSNSか何かに書いたのを見たことがある。
「子育てもせずにラクしてる夫婦は、いいとこばっかり取ってないで、大人としてちゃんとしてくださーい」
的な内容だった。子供が語る体で冗談っぽく書かれてはいたけれど、そこにある毒に驚いた。そして「この人きっと今、子育てやら何やら、もの凄く大変な時期なんだろうな」と、ちょっと同情すら感じた記憶がある。

当時はまだ、不妊治療などの様々な妊娠出産にまつわる問題に対し、今ほど情報がオープンではなかったように思う。だからこその、この書き込みなんだろうけど、どのみち短絡的な意見であることに違いはない。

「子持ち夫婦=子育ては大変だけど、しっかり社会的責任を果たしている」
「子なし夫婦=美味しいとこどりでラクして楽しんで、社会的責任を果たしていない」

うーん。
浅い。

そう、私は常々感じているのが、妊娠出産や子供にまつわる話題に対するデリカシーのなさだ。わりと最近出席した結婚式のスピーチでも、20代くらいの男性が「早く子供の顔見たいです」コメントをしていて驚いた。私の中でそれは、かなりデリケートな話題だと思っているから。

私の周囲、実際に私が付き合いのある友人知人には、既婚でも子供を持たない主義の人もいれば、持てない人もいる。流産経験のある人はかなり多いと感じる。長い不妊治療の末に、諦めた人。病んでしまった人。授かったものの、子供に障害が発覚したケース。産後数日で子供が亡くなってしまった人……本当に様々な事情も、状況もある。「子供いない=ラクして楽しんでる」という発言の、何と無責任なことか。

個人の意見として、
「子持ち夫婦=子育ては大変だけど、しっかり社会的責任を果たしている」
「子なし夫婦=美味しいとこどりでラクして楽しんで、社会的責任を果たしていない」
という考えを持っている人に対して、良いとも悪いとも思わない。その人はそう考えるんだな、と、思うだけ。

でももし、私が関わる人がこんな考えを持ち、かつ、その考えからこちらに対して批判的な行動に出たりするようなことがあるとしたら、そこは容認できない。
それは個人の考えを、自由を冒すものだと思うから。

自分の考え方だけに、囚われている人は大変だなと思う。

何が正解で何が不正解か、白黒ハッキリさせ勝者を決めたがる、勝者になりたがる人も厄介だ。

「違うんだね」

でいいと思う。

そこでどちらが勝っているのか、正しいのか、決める必要もないと思う。

正しさを根拠に、人を変えようとする人ほど厄介なものはないんだから。

私はそういう世界に関わらないよう生きていく。

お互い違うで、いいじゃない。

もしその違いが、あまりにも許せない時には、他に何か違う原因があるんじゃないかと思う。

人は人、自分は自分。

違ったまま存在する、それでいいのだ。

固執せず「違うんだな」で、放っておけば。

自ずと関わりもなくなるもんだよ、ほんとだよこれ。


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