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父が倒れた 3

家族の緊急事態〜たとえば今回は父の入院だけど、事故とか不測の事態のようなこと〜が起こると、当然ながら家族間に動揺が走る。

そしてこの動揺は、普段なあなあにしていた家族間の問題のようなものを浮き彫りにする。今回それを感じた。

本当は普段からあった、家族内の違和感。でも日々の生活の忙しさから、感じてもあえて飲み込んで、なかったことにしていたようなこと。

確かに問題に向き合うのは勇気も体力もいる。精神的にもしんどい。そこを追求することで、家族の仲も気まずくなりそうな気がする。疲れる。

だったら、思ったことは心にしまって、流せばいい。

そもそも、家族間でそんな風に問題を突き詰めるのって、どうなんだろう。白黒ハッキリさせるのでなく、曖昧にしておくのも、家族というか。

きっとこんな風に、実家ではいろいろなことをやり過ごしてきた。

でもやり過ごしたことって、視界に入れなくなっただけで、なくなった訳ではないんだな。

外側から見て、実家の家族関係は大変だなと、思う。
過去の感情を認めずに生き続けることは、心に蓋をして生き続けることは。

でも。でも。

本当のところ。

何が正しいかなんて、誰にも解らないんだよ。

昔の自分は、なあなあに流しているように見える家族に対し、批判的な気持ちを持った。もっとちゃんと自分の感情に正直になって、家族の間でもきちんと表現すべきだと思っていた。

だってやり過ごしてなかったことにしている家族は、とても楽そうには見えなかったから。

でも、だからといって、

それは良い悪いでも、正解不正解でもなくて、ただその時その人の「選択」に過ぎない。

そして個人の選択は尊重しなくてはならない。たとえそれが近しい、家族のことだったとしても。


そもそも「正しさ」なんてものは、どこにも存在しない。

何となく耳触りのいいような、口当たりのいいような、そんなストーリーを正解と思い込んでしまうけど、それが幸か不幸かなんて、当の本人にしか決められないこと。

それを外側から見てジャッジするのって、すごく傲慢なことじゃないのか。

なのに、私はつい批判的になってしまう。良くなって欲しいと思う気持ちから。

でも、誰かに対して「良くなって欲しい」と思ってる時点で、きっと違うのだ。

自分が責任取れるのは、自分の感情だけ。

私の価値観と違う家族は、違うからといって、悪人ではないのだから。

家族に対して何かしなきゃと思うのは、ある意味呪縛かもしれない。

いい意味で断ち切りたい。

人のために何かしたい、という思いは、表裏一体というのか。

そこを履き違えないようにしたい。

人には誰にでも自由意志があるのだ。

そう、私自身も自由に。

解放する時だ。

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