「好き」を起点に
食べることが好きだ。
実家の家業は飲食関係、小さい頃から料理や食べ物・食はとても身近な存在だった。やっぱりそこにはけっこう、いやかなり愛着がある。
両親は商売が忙しく、週末になれば家族でどこかにお出かけとか、そんな環境ではなかったし、普段の食事は忙しい厨房の一角でバタバタ済ますようなものだった。
けれども、美味しい恩恵も色々あった。夜の仕事が早めに終わると、お寿司を出前で取ってくれたり、近所の料理屋さんに食べに連れて行ってくれたり。「ラーメン行くぞ!」の父の掛け声に狂喜した。子供たちにとっては喜びの象徴でしかなかった。幼少期の、食べることに関する喜びの思い出は沢山ある。
でもそれが、単純に喜べるものじゃなくなってきたのは、いつの頃からだっただろう。小学生くらいでも「食べると、太る」みたいな意識はあったけど、そこでイコール食事制限、までは当然いかなかった。食べることにどこか罪悪感を持たされるようになるのは、中学・高校くらいからだったかなと思う。
覚えているのが、中学の頃。きょうだいの間で「イチゴのアイスクリームに練乳をかけて食べる」のが流行った時のこと。その組み合わせが私たちにとってはとてもスペシャルで美味しいデザートだったのだけれど、ある日、学校でそれを同級生に話してみたら。「ええっ!?」と、ものすごく嫌そうな顔をされてしまった。その子にとっては甘そうだしカロリーも高そうだし…と好ましいものではなかったのだろう。「ちょっと気持ち悪い」まで言われてしまった。我が家では「とても素敵なデザート」という認識だっただけに、その否定感に傷ついた。なんか悪いことをしているような気分にすらなった。そして、ハッキリ言われた訳じゃないけど、私はそこに「太ることへの戒め」みたいなものも、感じてしまったのだ。
さらに思春期にもなれば「太ること=悪いこと」の思いがますます高まっていく。モテるのは痩せている子。太ってる子は対象外。食べることは好きなんだけど、それを公言することはどこか、憚られるような。そんな思いを自分の中に抱えるようになる。大食いとか、いっぱい食べることが、賞賛されるのは小さい子供だけ。大人になったらむしろ少食の方がスマートでかっこいい。大食いで太ってるのってバカみたい、だらしない、みたいな。
本当は大好きな「食」なのに。
歪んでねじれた「食」に対する思いを、持ってしまった。
そして、それに同調するように、社会にもそんな風潮があるのをひしひしと感じていた。肥満してる人は、自己管理できない証拠だから、出世できないとか。痩せている・スタイルがいいことが、成功の条件のような。
そんな強迫観念から、無理なダイエットをしてみたこともあった。そして、成功して痩せると、確かに周囲にも褒められた。その時はもちろん嬉しかったけど。でもそんなこと、当たり前だけど長くは続かない。ダイエットを止めれば元どおり、そしてまたそんな自分に罪悪感を重ねていく。悪循環だった。
「食べることが好き」。
こんな単純なこと、どうして素直に言えなくなってしまったんだろう。
振り返ってみればそこには、太ることへの恐怖、罪悪感があった。
社会からの批判や、評価への怖れがあった。
太ってる人は、成功できない。
体型管理できないのはダメ人間。
そんな極端な考えを持つまでになった、私がいた。
こんなに気持ちを強張らせて。
私、一体、何したいの?
私の祖母は、自分は痩せてるのに、痩せている人に対して「みっともない」と言うような人で、私たちにも「痩せるとみっともない」と、よく言っていた。でも子供心にそれは素直に受け取れるものではなく「それはちょっと違うんじゃないか」と思っていた。世間では「太ること=悪いこと」とされると、既に知っていたから。
太ってる人は、悪役か道化役。
主人公はみんな痩せてスマート。
太ってる人はどこかバカにされ笑われる。
主役になれない。
テレビでも漫画でも物語はすべて、そんな風だった。
「デブ」っていう言葉は、恐怖ですらあった。
そんな風に刷り込まれて、深い部分で恐怖まで感じて、それで本来好きな「食」と、単純に素直に、つきあえなくなってしまったんだ。
とても悲しくて、とても残念なことだった。
食べることは、悪いことかな。
食べることは、喜びだったんじゃなかったのかな。
社会や、
世間や、
誰かの思惑で、
色んなこと、思い込んで、生きてきてしまった。
私がリアルに感じる「美味しい」の思いを、打ち消してしまうほどに。
もうそんなのは、嫌だ。
私は私の「好き」の感覚に、従っていく。
ただただ、単純に、「好き」の方へ。
どんなことでも、そこに「判決」を加えてしまうと、苦しくなっていく。
太るのは、悪いこと。
痩せるは、良いこと。
だから太るに繋がる「食べる」行為は、管理しなくてはならない。
コントロールして、体型管理して、健康的なライフスタイルを送ることが「正解」。
後先考えずに食べること、食べて太ってしまうこと、体型管理できないことは「間違い」。
そんなジャッジメントと共に生きていたって、全然ちっとも、嬉しくない、楽しくない。
そう、食事管理することが楽しい!という状況もあるだろう。それをやることで明らかに体調が良くなるとか、味覚的にも合ってて楽しいとか。それならどんどんやればいい、だってそこには喜びがある。
でもその、喜びの方向に向かってやる食事管理ではなく「太りたくない」「太るのが怖い」「人に批判されないために」「社会的成功のために」やら「ねばならない」で、やっているものだとしたら。
苦しいな。
切ないな。
辛いな。
そこに見えてくるのは義務、喜びは見えてこないから。
もうそんな苦行は、終了してもいい頃だと思う。
そして、そんな自分を責めるようなやり方では決して、成果も出ないと思うから。
私はそこから離れます。
良い悪いとか、正しいか間違いかからの判断による行動を止めます。
私が立てるアンテナは、あくまであくまで「好き」の方へ。
これいいな、と思う。
なんか気持ちいい。
ほっとする。
かわいいな。
快適だな。
なぜか笑顔になる。
涙が出る。
なんだかじーん、とする。
頭がもし解ってなくても、魂はちゃんと解ってる。キャッチしている。
私の、「好き」。
ここを起点に、動いていくんだ。
発信するのだ。
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