駅とぼくとお母さん
お母さん、ぼくは、二十歳になりました。
成人式も無事に終わり、タバコも吸えたり、お酒を飲めるようになったりと、世間一般的にはもう大人の仲間入りです。
けれどあまり実感はなく、特に十代と変わりない生活をしています。
昼は大学に通い、夕方から夜にかけては週に三回から四回、スーパーでアルバイトをしています。
仕事帰りに食材を購入し、アパートで自炊を心掛けています。
栄養に偏りがないよう、お肉だけでなく、玉ねぎやニンニク、ブロッコリーなんかも自分なりに料理して食べているから、安心してください。
一人暮らしはとても気楽です。
けれどついつい自堕落になりがちで、牛丼とかハンバーガーをつい買ってはチューハイなんか飲んで夜更かししてしまいます。
パパが月の初めに、お米やお菓子、野菜などをたくさん送ってくれます。
いつも簡単な手紙が入っていて、
「人は食べる物で出来ているから、なるべく自炊して健康には何より気をつけなさい。今度帰って来たら、また一緒にハイボールを飲もうね!」
と書いてあります。
あ、お母さん、この年齢にもなって、まだ『パパ』と呼んでいるんだけど、パパのことを『お父さん』と呼ぶ時期的なタイミングをいつの間にかぼくは逃してしまいました。
子供の頃、もっともっと小さいよちよち歩きの頃から、『パパ、パパ』とずっと言っていたので、もう、パパはパパ以外の何者でもなく、だから、これからもずっと『パパ』と呼ぶんだと思います。
もちろん、わかなも同じです。
この前実家に帰った時、パパとわかなとぼくの三人で、古い写真を整理し、新しく買ったアルバムに入れました。
少し埃をかぶっていた写真もあったので、きれいに汚れを拭きました。
そのたくさんの写真を三人で眺めながら、いろんな思い出話に花を咲かせました。しんみりとしたか弱い花ではなく、お日様に向かって咲く向日葵やハイビスカスのように、明るく元気一杯の、大きな花です。
ぼくは二十年前の一月に生まれました。
お母さんの故郷、新潟の大きな病院でした。
ぼくが産声をあげた日、外は一面雪景色で、粉雪が絶え間なく降り注いでいたそうです。
お母さんは、ぼくが産まれて病室全体に響くくらいの大きな声で泣いた時、一緒に泣いたそうですね。
そして、
「幸せでこんなに涙が出たのは初めて!」
と、笑って、それからまた泣いて、もう一回笑って言ったそうです。
パパがそう教えてくれました。
『瞬』という名前は、二人で考えてつけたんだよと、前パパに教えてもらいました。
パパ的には、ぼくがお母さんのおなかの中にいる時に、前もって名前をつけたいと考えていたけれど、お母さんは、
「この子が生まれて、顔をよく見てから一番ふさわしい名前を贈りたいな。名前は親が子供に贈ってあげる最初の、大切なプレゼントだから」
と、頑なに譲らなかったそうですね。
「その気持ちも理解出来るよ。けどさ、名前を早くに決めてニックネームで呼んだりした方がおなかの赤ちゃんも喜ぶんじゃない?」
「最初はそう思ってたけど、やっぱり顔を見てこの子にピッタリの可愛い名前をあげたい!一生この子の運命と人生についていくのが名前だから!」
そんなやりとりが何回もあって、結局パパもその考えに納得したらしいね。
ぼくとわかなが少し頑固なのは、お母さんに似ているのかも知れない。
『瞬』という名前には、こんな意味と想いが込められてるそうですね。
“流れ星や花火など、人の心に希望を与えてくれる美しいものは、一瞬のうちにたくさんの人に感動を与える。その短い一瞬の価値を理解出来る人になってほしい。そして、『瞬』という字は「まばたき」をする意味がある。誰かを助けたり、手を差し伸べたりするような行動を、誰かが見ている時に見せびらかすようにやるのではなく、人が見ていない、瞬きしている時にそっと救ってあげれるような、そんな男の子に育ってほしい”
たった一文字の簡単な名前に、そんな願いが託されていたんだな、自分はその名に相応しい人に成長しているのかなと、ふと考えてしまいます。
ちなみに次の年に生まれた『若菜』という名前には、
“いつまでも初々しくて可愛らしい女の子であってほしい、新潟のとめどなく降り続ける雪にもしっかり耐えて、やがて芽を出す花のような子に育ってほしい”
というお母さんの強い祈りが込められているそうですね。
わかなは、少し気が強くて泣き虫だけど、その願い通りの女の子に育っているから安心してくださいね、お母さん。
ぼくは、生まれて間もない頃から、お母さんにべったりで、いつも甘えていたそうです。昼夜を問わず泣き、お母さんに抱っこをされるとニコニコ笑っていたそうです。
東京に住んでいる時、世田谷のサザエさん通りという場所をお母さんとパパが歩いていて、ぼくは抱っこ紐の中で気持ちがよかったのか、ニコニコ笑っている日があったそうですね。
不意に声をかけられて振り返ると、近くの教会のシスターが優しい笑顔で近づいて来られ、ぼく達家族にこう言ったそうです。
「突然声をかけてしまい、申し訳ありません。このお子様があまりに可愛らしくて天使のようで、声をかけずにはいられませんでした。ぜひ、お祈りさせてください。この赤ちゃんと、ご家族の笑顔に。」
お母さんはそのちょっとした何気ない出来事がとても嬉しくて、何よりの自慢で、自分の実家の家族や、パパの家族にその話を何回も何回もし、いつも得意満面の笑顔で誇らしそうに語りながら、鼻をピクピク動かしていたんだよと、そう、もう何回くらいだろう、お酒を飲む度にパパから聞きました。
パパも、その時のお母さんに負けないくらい、きっとその話をするのが楽しいんだと、ぼくは思っています。
ぼくが生まれた年には、サッカーのワールドカップが行われていました。
おもちゃのサッカーボールを持ち、当時流行っていたらしい、ソフトモヒカンの髪型をしてにっこり笑う赤ん坊のぼくを、お母さんが優しく抱っこしている写真を見つけました。
「髪型だけじゃなくて、この子も有名なサッカー選手になったらいいね!」
と、冗談混じりにお母さんが話していたそうですね。
ぼくはサッカーが大好きで、日本だけではなく、世界中のクラブチームの選手の事に詳しく、物心ついた時からサッカーの試合を観て来たけれど、サッカー選手にはなれませんでした。
お母さんの期待に応えられなくて、ごめんなさい。
お母さんはいつも、泣き虫のぼくを抱っこしてお買い物に出かけたり、パパの仕事が休みの日は、必ず手作りのお弁当を準備して、お散歩に出掛けていました。ぼくを、滑り台の下の方に座らせてみたり、小さなブランコに一緒に乗ってゆっくり揺られてみたり、そんな写真を見る時、お母さんはいつも笑っていて、目が細くなっています。
わかなも大笑いすると目がなくなってしまうから、やはりお母さんに似ているんだなぁと、ぼくは思います。
お母さん。
お母さんは、ぼくが二歳になる前、わかながもうすぐ一歳になろうかという秋の終わりに、病気で亡くなりました。
もちろんぼくには、その記憶はなく、少しずつ大きくなる中で、自分にはお母さんがいないことを理解出来るようになりました。
その時、悲しいとか、辛いとか、不公平だとか、そんな負の感情はなくて、お母さんがいないという事実がむしろ当たり前に感じていました。
パパは、ぼくとわかなを連れ、熊本の実家に帰る決心をしました。
ぼくを抱っこし、わかなをおんぶしながら、電車や飛行機を乗り継ぎ、窓の外の景色や、青い空を眺めながら、歯を食いしばっていたそうです。
いろんな現実だとか、予想の出来ない未来なんかを無意識に考えていたせいもあり、未だにどんな気持ちで実家まで戻って来たのか、むしろどうやって無事に帰りついたのか、あまり記憶がないそうです。
ぼくはその頃、アンパンマンと機関車トーマスが大好きだったので、そのおもちゃを駅で買ってもらい、両手にもって遊んでいたらしく、あまり泣かなかったと、パパが話してくれました。
新しい生活が始まり、じぃじとばぁばと、パパとぼくとわかなの、新しい生活が始まりました。
年が明けて間も無く、ぼく達は保育園へ通い始めました。
その保育園は、パパも通っていた古い、温かい保育園で、当時新任だった先生が、園長先生を務めていました。
「あら、しゅんくんと、わかなちゃんね?先生はね、パパが小さい時からのお友達だから安心してね。パパはものすごく元気のいい子供だったんだから負けたらダメよ!いっぱい遊んで元気モリモリになりましょう!!」
そう言ってパパと、ぼく達を励ましてくれたらしいです。
パパは、すぐに仕事を探したけれど、家族との時間を第一優先と考えていたらしく、なかなか思うような仕事を見つけられませんでした。
なんとかファミリーレストランの社員になったけれど、時間が不規則だったり、思うように休みが取れないこともあって、ある時身体を壊して入院してしまいました。
それをきっかけにその会社を退職し、今のお仕事を見つけました。
パパはドラッグストアで、お薬の販売をしており、いつも白衣を着ていますが、ところどころが黒く汚れているので少しカッコ悪いかも知れません。
ぼくは小学校ではソフトボール、サッカーで汗を流しました。
それから、音読を何より頑張りました。
絵本を暗記し、童話発表会に毎年参加し、ずっと学校代表に選ばれました。
また、県が主催する詩(ポエム)コンクールにも毎年応募し、優秀賞をもらって大きな会場で表彰され、テレビにも映りました。
ある時は、わかなと一緒に表彰され、インタビューも受け、パパは一人二役で何回もステージを往復していました。
『天国のお母さんへ』
という題のお手紙を書きました。
無事、届いていればいいのになと、今も考えています。
小学生の頃、ぼくはあまりご飯を食べず、背もあまり伸びませんでした。
クラスでもずっと一番小さく、並ぶ時はいつも前の方でした。
けれど中学生になって陸上部に入ってからは、見違えるほどに大きくなり、いつの間にかパパの身長を超え、足のサイズも特大になりました。
短距離で使用する専用のスニーカーを買いに行ってもなかなか足に合う靴がなく、パパはいつも苦笑いをしていました。
「いいよいいよ、足が大きい子に悪い子はおらんけん!頼もしいたい!」
と、いつも笑っていました。
「こん子がこんなに大きくなるなんてなぁ!」
と、じぃじもばぁばも、同じように(少し呆れたように)笑いました。
お母さんは運動が苦手だったらしいですね。
その代わり料理や、音楽が得意だったとパパが言っていました。
ぼくは、高校では吹奏楽部に入部しました。
野球やサッカーの試合の時は、スタンドでクラリネットやトロンボーンを一生懸命吹いていたので、遠いママの住む場所でも聴こえていたんじゃないかなと、自信を持っています。
帰省した時は、パパにチャーハンや餃子、お好み焼きなどを作ってあげたりして、料理も大好きです。
だから、ママの得意だった分野に関しても、ぼくはほんの少し恩返しが出来たかなと勝手に思っています。
高校生になると、ご飯をたくさん食べるようになりました。
ラーメン屋さんに行っても、麺の替え玉は三回くらいで足りないし、牛丼屋さんでは特盛に別皿を注文していました。
ぼくが赤ん坊の頃、なかなか離乳食を食べてくれず、少し口に入れてはぺっと吐き出していて、あの手この手でなんとか食べてもらおうと苦労していたそうですね。
パパも、実家に戻ってから、あまりにもぼくの食が細いのを心配し、知り合いの保健師さんに何度も電話をしては相談したらしく、今ではいいお酒の席での笑い話となっています。
お母さん、
こう言うと少し変かも知れないけれど、
ぼくはこんなに大きくなりました。
まだまだしっかりしていなくて、大学での就職活動も思うようにはかどってはいないけど、病気もせず、元気にやっています。
この前アルバムを整理しながら、久しぶりに古い写真を見て、パパとわかなで大笑いしていろんな思い出話を語り合いました。
そして、ふと、お母さんに手紙を書いてみたくなりました。
ぼくは今、電車に乗って実家へ向かっています。
駅にパパが迎えに来てくれるので、ラーメンでも食べてコーヒーを飲んで、それからわかなと待ち合わせをしています。
パパがよく、
「人生は旅に似ているよね!」
と、カッコつけて言います。
なるほど、特急も、各駅停車もあり、どれに乗るのか、いつ降りるのか、人それぞれです。
どこに向かうのか、何が目的で、長い旅路がいつ終わるのか、誰にもわかりません。
お母さんは、生まれて来て幸せでしたか?
パパと結婚し、ぼくとわかなを生んで、幸福ですか?
いつか、またお母さんと出会う日、
ぼくはそれを聞いてみたいです。
そして、大人になった姿を見てもらいたいです。
泣いてばかりいたので、笑顔で会いたいです。
お母さんの人生という旅は、二十三年間で終わってしまいました。
それは儚く、尊い時間だとぼくは思います。
お母さんが名付けてくれた、『瞬』とい字に込められた願いや祈りのように、お母さんが生きた流れ星のような人生は、とても美しく、そして立派だと思います。
だからその名前に決して恥じないような生き方をしたいと思います。
ぼくは今こうして生きています。
だから、『死』という存在の意味や、その後の世界の仕組みなど、まるで解りません。
中学校の時の国語の先生がこんな話をしてくれました。
「人間が生きる理由は、いつかやがて死ぬからだと思います。死がゴールであっても、その先にまた新しいスタートがあるとしても、人は精一杯に生きなければならないと思います。もうだめだ、生きてなんかいたくないし生きてるなんてつまらない、そう思うこの今という瞬間は、昨日、事故や病気、戦争とかで無念のうちに命を落としたたくさんの人の、夢にまで見たかけがえのない今日ではないでしょうか?」
そしてなんの本だったか漫画だったかはっきりとは思い出せないけれど、
「亡くなった大切な人の分まで一生懸命に生きて生きて、生きたら、いつか天国へ行った時、一番会いたいと思う人に、一番に会える」
と書いてありました。
あ、お母さん、次の駅で、ぼくは降ります。
せっかちで心配性のパパが、だいぶん早くにやって来ていて、ぼくの乗る電車を待っているんじゃないかな。
パパは、仕事が終わって電車で帰る時、ぼくとわかなを連れて迎えに来ていたお母さんの姿が、夕日に照らされている景色が何より一番美しくて好きだったって、言っていました。
今大学で勉強していることや、高校時代の友達や彼女の話、今夢中になっている話題や将来の夢だとか目標とか、いろいろ書きたいけれど、それはまた次の手紙に書こうと思います。
あ、そうだ。
お母さん。
何十年か先、ぼくがお母さんのそばに行く日、
ぼくがどんな姿で会えるか分からないんだけど、
もし、小さい子供の姿だったら、
昔みたいに抱っこしてもらいたいな。
そして、『ママ!』って言ってみたいな。
少し、恥ずかしいけど、
ね。お母さん。
私の記事に立ち止まって下さり、ありがとうございます。素晴らしいご縁に感謝です。