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人は何故、承認を求めるのか?みたいな話

皆さんこんにちは、あんかけマンです。

私は4年間HR領域の会社を経営しており、働き方や仕事ということについて常に触れる環境で生活います。

HRというのはヒューマンリソースの略で、人の力を使って何とか課題解決しますよって感じのニュアンスです。

なので、必然的に人の転職の話だったり、企業の求めている人物であったり、今の世の中の『働く』って事に対しての情報に日々触れているのです。

その中で、「もっと働くってこういうものなんじゃないかなぁ~」とか
「採用ってこういうものなんじゃないかな~」って思うことがあるので、そういうのを中心にこのnoteは書いて行こうかなって思ってます。

ググるってもう古いらしいよ

今日のお話は、皆さんが大好きなSNSのお話です。

最近の若者たちの間では「ググる」という言葉はもう古いらしく、トレンドは「タグる」らしいです。

「タグる」って何やねん!って話なのですが、これは主にはSNSで#をつけて検索をすること。

#は「ハッシュタグ」と呼ばれているので、これが「タグる」って事らしいです。

検索エンジンとして、GoogleよりもXやInstagramを重視しているという事が最近の傾向としてあるようで、こうなって来るとGoogle上でのSEO対策を必死にやって行くよりも、飲食店などの店舗ビジネスなどではSNSに力を入れて行った方が良い事が分かります。

Googleの検索エンジン上では、ドメインパワーと呼ばれる指標が重要視され、このドメインパワーは何によって決まっているかというと、どれだけ多くのサイトから被リンクを獲得しているか?(リンク付きで紹介されているか?)

という要素が基本になって来ます。
(とっても端折ってます)

が、SNSにおけるいわゆる「バズ」は、最大瞬間風速的な要素が強く、よりコンテンツとして優れていて多くの承認を得たものが上位表示される仕組みになっています。(基本的には)

個人が発信する事が重要視されるようになったのも、こう板要素が強く、企業が様々な根回しをして構築していくSEO対策とは異なり、一発逆転的な要素があるのがSNSの利点です。

Twitterって「ファボ」だったよね

名前が変わったX(旧Twitter)ですが、名称変更から1年程経過しますが、いまだに標記の多くに(旧Twitter)という文言が付きます。

確かに、「X」だけだと、「バツ」なのか「エックス」なのか「かける」なのか分かり辛かったりします。

そういう意味でも(旧Twitter)という表記がされているのはあると思いますが、やはりなじみが深いのはTwitterという名称でしょう。

わたしの世代で言うと、2011年が中学1年生になりますので、この時クラスの半分くらいの人が「携帯」を持ってるかもってないかみたいな状態でした。

初めて手に入れた携帯は、スマホを上にスライドするとダイヤルが出てくるっていう、まさしく中2な私には「なんかかっこいい!」となる代物でした。

ちなみに、このダイヤルを押したことは一度もないですが(笑)

で、中学3年生の時にはほぼ全員が「携帯電話」を持っている状態で、一部の子はパカパカ携帯、いわゆるガラケーでした。

スマホ持ってる生徒はLINEで会話が出来るけど、ガラケーだとLINEに入れない。

みたいな状態がある中で、「いやガラケーでも行けるし!」って言ってWeb版(?)みたいなので参加しているメンバーもいましたね(笑)

「パケ死」っていう言葉がある時代です。

これ、契約時に気を付けないと、とんでもない請求額が親の元に届くっていうんで話題になっていた記憶があります。

そんなスマホ世代な私なのですが、LINEと同時にTwitterアカウントも持っておりまして、これは主には趣味垢で、

リア友とはLINEでつながっていて、Twitterではネット上の知り合いとつながっているっていうそういう状態ですね。

「ネットで知り合いが出来る!? めっちゃ面白いじゃん!」っていうそういうノリで、この当時は賛否両論あったのですが(特に中学校の生徒指導などでは)学生たちの間でも結構流行っていました。

前置きが長くなったのですが、当時のTwitterにおける機能であったものは、「リツイート」と「お気に入り」です。

お気に入りは「ファボ」と呼ばれていて、英語でお気に入りをfavoriteと呼ぶことから、略して「ファボ」だったみたいですね。

現在では、投稿に対してハートマークを押すことは「いいね」と表現されていますが、もともとはアイコンは☆マークで示す意味合いも「お気に入り」だったのです。

「いいね」と「お気に入り」の違い

いや、そんな違いどっちでも良くない?

って思うかもしれませんが、個人的にはこの言葉に違い、結構意味変わってくると思っていて、要は言葉の矢印の方向性が変わるのです。

お気に入りといいねの違い

図にするとこんなイメージ。

もちろん、従来の形でもフォロワー以外にも情報は見れたし、今でも鍵垢設定は出来るので、これがまさにその形って話ではないんだけど、

ニュアンスとして、いいねとお気に入りってこれくらい位置関係異なるものなんじゃない?

っていうのが個人的な見解です。

実施に「いいね」ボタンを押すときに、そう思っているかは不明ですが、「いいね」っていうのは=「承認」であり、投稿者に対しての矢印の方向性になります。

一方「お気に入り」に関しては、あくまでも個人的に、その投稿を後で見返すために、または気に入ったという感情でのアクションになりますので、矢印の方向性は自分(閲覧者側)に向いています。

自分の発言に対して、どれだけ多くの人の賛同が得られたか?

という観点では、どちらも変わらないのですが、この微妙なニュアンスの変化が、個人的には昨今の社会における大衆心理の変化につながっていると思います。

いいねってめちゃ嬉しいよね

と、ここまで「いいね」のについての話をしてきましたが、この「いいね」もらえるとめっちゃ嬉しいですよね(笑)

noteの場合だとハートがより直接的に「スキ」と表現されますが、この「スキ」の数で、

「うお、この記事書いてよかったな!」とか

「今度はこんな話題も触れてみよう!」

とか、思うわけです。

そういう意味では、承認される→よりやる気が出る→より投稿が増える→ユーザーが増える。

という循環が生れるので、アプリ側からしたら良いサイクルが築けているのでしょう。

実際、「承認にあふれた世界」ってのは素晴らしい世界だと思うし、こういうものが現実社会でも確実に起こるはずです。

で、ここで何が言いたいかっていうと、

いいねがつかなかったとき、めっちゃ寂しよね

って話なのです。

どっちかというとこっちが本題です。


この世界というものは、「観測」されて初めて「私」という存在が成り立ちます。

逆もまたしかりで、

「私」がとある現象を「観測」して、初めてその現象は存在します。

「旦那が浮気をした」という事実はあなたが「観測」して、初めて存在するのです。

ここで言う「観測」というのは、直接見たor誰かから聞いたという話ではなく、どちらかというと「認識」という言葉の方が近いです。

浮気がばれなきゃ浮気じゃない論争は置いておいて、

「観測者がいて初めて物事は成立し、単一では物事は成し遂げられない」

という事です。

もし、透明人間が存在していたとして、存在が見えないから存在しない事になってるけど、実際はいるのかもよ?

でも、いたとしても証明は出来ないけどね。

って話です。


話を戻しましょう。何が言いたいかというと、

誰からも承認されない言葉に果たして意味はあるのであろうか?

という事です。

人々に「観測される事」「承認される事」があって初めて、この世に存在意義があるのであれば、だれにも認められない意見は「無」なのでしょうか?

という事です。

多くの現代人にとって、この回答は「YES」となるでしょう。

  • noteなんて書いて、誰が読むの?

  • Xのフォロワーをもっと伸ばさなきゃ!

  • この前〇〇ちゃん(インフルエンサー)を新宿で見た!

といった具合で、

「承認が多い事」=「存在価値の高い物」
「承認されないもの」=「存在価値のない物」

という方程式が、知らず知らずのうちに出来上がっているのです。

「いいね」が嬉しい理由には、こういった「社会の中で認められる」ことに対しての喜びがある訳です。

勘違いしないで欲しいのは、私もnoteの「スキ」がもらえると、めっちゃ嬉しいという事で、人間ってみんなそういうものだと思います。

承認欲求が悪い事とかそういう話でもなくて、むしろそれって誰にでもある勘定だし、上述したように「承認」が無ければ「無」なのですから当然です。

「私」という観測者の存在

誰からも承認されない言葉に果たして意味はあるのであろうか?

この問いに対する回答は、多くの方にとって「Yes」だと思います。

「観測者」がいて初めて「私」が存在するとなった時、「私」という存在を誰も承認してくれなったら、「私」は存在しない事になってしまします。

だから人は、必死に外に。

「人々」に承認を求めて、様々な発信を行うのです。

その結果、SNSの投稿が伸びた。伸びない。

という事で悩むのですが、

そもそも「人々」の観測が無くても、既に「私」は存在していると思っていて、

それは、「わたし」が「私」を観測している。

という事です。

こういう系の歌、昔からありますよね。

尾崎とか好きです。

でも結局そういう事だと思っていて、

「わたし」が「私」の事を承認=観測

してあげることが出来れば、私は確かにそこに存在しているのです。

で、もうそれって言葉にしている時点でこの世に存在しているってことだし、何なら頭の中で考えているだけでも、それは「存在」していることになります。

この記事全体を通して何が言いたいかっていうと、

他社からの承認に依存せずとも、わたし自身の承認が得られればそれで良いんじゃない?

っていうそういう話なんです。

よく子供の時に言われました。

「よそはよそ、うちはうち」

そういう事なんです。

「あぁ~、教育って大事なんだなぁ!」


と、まぁこんな感じでだらだらと書いていくのが私のnoteです。

なんかこんな感じで、もっとライトに、もっとフラットにみんな生きて行ったら、ふわふわ~ってして良いんじゃないかなぁ~

って思いながら日々を過ごしており、またこういう記事を読んで、少しでも共感・共鳴して、そういう生き方を自分をしてみよう~って思う方が増えたら嬉しいなって思います。


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