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【多世界平行現実1 2006年の体験記録】

現実ってなんでしょうね。

あの体験をするまで、
私は『現実』というものを
確かな、ひとつの揺るぎないものと 認識していました。

そしてそれを当然にして生きてきました。

それがあの体験によって 根底から覆されたのです。


ただこれをどのように……

・・・・・

体験を通し感覚で得たものを
どこまで上手に言葉として表現できるのか・・・・私自身冒険でもありますが書いてゆきます。



すべてを言葉に変換するというのは
どうしても無理が生じてしまうので、伝わりにくい部分もでてきてしますかもしれません。

どこまで上手に書けるかもわかりませんが、
なるべく簡潔に、
しかし飛びすぎないように、
頑張って書いてみたいと思います。

今日もしばし戯言にお付き合いくださいませ。

それから、理解しようと思考をフル回転しないで いただけたらと思います。

私自身 常識や思考の域をスバ超えしまってるところでの理解になります。

だからこそ 長年誰にも口にもせず閉じ込めてきました。

……

……

……(だったら書くな(`□´)/~ぺシッ  あたっ!(/\))


************
2006年12月

私があの体験によって

ひどい混乱状態に陥りながらも、

感覚ではしっかりと、

冷静に認識し

納得していたこと。

それは

『現実とは唯一に存在しているものではなく、
複数、それもかなりの数で点として存在している』

ということでした。

また私達が
通常なんてことなく過ごしているこの日常、
日々営まれる現実は

紛れもなく

『私達がこの瞬間瞬間に生み出している・選択している』

ということでした。

別の言い方にすれば、

『私のこの瞬間瞬間の選択によって、
この多次元平行現実の
何処の現実に存在するかが決定されている』

ということになるかと思います。

本来 すべてにおいて 物事というのはニュートラルなもの。

問題はそれを
『私がどうジャッジしているか・したか』
で 自分の現実を生み出しているということです。

これはある意味 信じがたいことかもしれません。

なぜならば、こんなことを書くと

「そう言うけれど、でもこの現実は自分で望んでいないよ」

「こんなこと私は選択してない」

という思いが 少なからず自分に襲い掛かってくるからです。

嬉しいことならともかく、嫌なことや大変な時などには・・・特に。


なにを隠そう、私自身もそうでした。

しかしあの体験後、

それらの考えも一変されてしまったのです。


『現実は心の投影』

それは私が想像する・していた以上に、

思考で理解していた以上に、

とても精密で

巧妙に行われていたことであったのです。



「選択」
という言葉は、

「意思」
という存在を前提に
行われているもと 私達は通常認識しています。

そして
「意思決定」とは、
そこには「私」の表層意識の認識が存在していると思いがちです。

自らのはっきりとした認識が そこにはあるものと思いがちです。

しかし、事はもっとずっと奥深い部分で行われているのです。

「瞬間瞬間の選択」とは

自らが表層部で意図する間もないスピードで、

常に行われているのです。

それがゆえに
「現実は自らが生み出している」
「現実は己の心の投影」
などと言われても

認めにくい・受け入れがたい部分があるのです。


なぜならば、
そこでは自分ですら気づいていない・知らない
自分の心の無意識の癖が
絡んでいる場合が多々あるからです。

それは
これまでの長い人生の中で自分自身を守るため、
生きるために身につけてきた
当時の自分の必死なもろもろの知恵によって
巧妙に隠されている……、
もしくはそれらと混じりあって
巧妙に隠してある、・・・とも言えるでしょう。

これは、私が向こうの存在達にさんざん言われた
「己をみよ(自分のマインドをみよ)」
とも共通しています。

向こうの存在達は、
当時私ですら全然気づいていなかった(見ようとしなかった)
私の深部・・・マインドの動きをすべて見通した上で

「己をみよ」

と伝えていました。

「己をみよ」と執拗に 執拗に 言い続けてきました。


「己の心」に
私自身がきちんと気づかない限り、
根本的な問題解決はできないことを、
なにより解っていたからです。


これと同じことが
ここでも言えるのです。

自分の心の根本、根底に流れる思いこそが
「瞬間瞬間の選択」を行っているのです。


そしてあまりに巧妙に行われているこの「選択」に
気づいていない私達。

……というよりも、
通常認識できないようにしている……というほうが、
正確な表現かもしれません。


ただ、ここでひとつの疑問がでてきます。


*「じゃあ私がこの瞬間瞬間に多元平行現実の何処に存在するかを決定しているというならば、
瞬間瞬間に異なる現実を行き来していることになる。
じゃあ記憶はどうなるの?。
その現実現実によって過去の出来事も異なっているんじゃないの?」

・・・うん、その通りだよね。

その現実現実によってその現実の営みが行われている。

それならば
その現実現実によって過去といわれるものだって 異なってくるでしょう。

なのに自分の記憶がきちんといつも連続して存在している・・・。


・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・


・・・・・
・・・・・・・・
・・・・・・・・・・

う``・・・・・表現方法に行き詰まった・・・・・(パタッ。


今日はこのへんで ノ~~。

つづく

*********

私の言う「己をみよ」は
深い部分での自分に
ただ気づき認める
という行為であって、
決してジャッジを行うためではありません。

自分の至らなさに気づくこと、責めること、ではないです。

「己をみよ」
それはニュートラルなものとして観察する行為であり、
自分謎解き”観察”ゲーム・・・
くらいの感覚で捉えてもらえたらと、思います。


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