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やがてマサラ #3 内向き振り子が揺れる先

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

中途半端な帰国子女

帰国子女というとなんだか無条件にカッコいいのかもしれません。

ただ私は幼すぎたのと、帰国後には地元の公立校に通ったので、異国での短い3年間だけをもってして世間様の想像するような颯爽とした帰国子女になれたわけではありませんでした。

帰国の年の祖父の年賀状。孫たちを金の卵と表現していました。

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ブラジルでは休職していた母も職場に復帰。生まれてこのかたずっと孫溺愛体質の祖母がまた、私と弟の面倒を見てくれました。朝、目が覚めたら4軒先の祖父母の家へ、学校から帰ったらまた祖父母の家へ。寝る直前にやっと自宅に戻りました。

祖父の年賀状には東西冷戦の模様、私と弟の七五三が描かれたことも。

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祖母の読み書き特訓

私と弟の帰国で燃えたのは祖母です。

自分の娘のときにも実感しましたが、日本では小学校入学前に「ひらがな」や「カタカナ」は読み書きできるようになるのですね。

両親は楽観主義といいますか、まったく焦ることなく帰国直前になってようやく私を補習塾に通わせたりしたようです。けれど帰国時、私は自分の名前も満足に母語で書けませんでした。アルファベットの読み書きはできていたのに。

そんな孫を立派な日本人に育てるべく、祖母のスパルタ指導で日本語の読み書きを特訓。話すことには不便がなかった私に比べ、3歳下の弟はまだ言語の使い分けができず、保育園のトイレでポルトガル語で「紙がない!」と叫んだりしていたそうです。

学校と祖母のおかげで日本語はめでたく私の母語におさまりましたが、反してポルトガル語と英語はおそるべき勢いで脳みそのどこかにしまい込まれました。

孤独が友だち小学時代

さて、個性を重んじ子どもの自由な発想を大切にするブラジルと違い、皆さまご存知の日本の学校教育は、ことごとく私の気質に合いませんでした。

皆が右というときに左と言ってしまう。先生はこのように答えさせたいのだと理解する頭はあっても、期待通りの反応ではないことをしてしまう。

ブラジルなどという国は、日本の海辺ののどかな町の小学校に通う子どもたちにはまったく未知の世界です。ブラジルではこうだったのに、という思いは「ここは日本だ文句あるか」というよくある言い分に完全に押されました。

男子はいずこもアホです。

「なんだよ豚汁(ブタジル)」

ちょっかいを出されては反撃していたのが、いつの間にかすっかり内向きになりました。引っ込み思案で、人見知りで、ひとりで行動することを好む孤独な少女だったと思います。

趣味は図書館通い。夏休みには朝から図書館に入り浸り、児童書コーナーは読み尽くし、大人の書籍の棚を端から一冊ずつ読んでいきました。

祖父の年賀状の私も読書(笑)

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外の世界への憧れ

小学校高学年で始まったクラブ活動では女子のグループに入るのが怖く、オタクっぽい男子しかいないアマチュア無線クラブへ。おおむね器械にのみ興味が集中し、ひとりしかいない女子をからかうとか馬鹿にするとか、そういうことと無縁のとても居心地のよいクラブでした(笑)。

学校から無線機を借りて、自宅でひとりで初めて外国と交信したときのことです。

「CQお願いします、こちらJ△1Y×Q」

即座に私のコールサインに応えてくれたのは、どこかの海上にいる日本人の船員さん。そんなにすぐに見ず知らずの人と繋がるとは思ってもいなくて、とても焦りました。あちらもまさか子どもが発信しているとは思わなかったらしく、なんだかお互いにあわあわしていると。

たまたま傍受していた同じ無線クラブの6年生の男子が間に入り、テキパキと交信を仕切ってくれました。「先輩、かっこいい!」とオタク男子にときめいた小学5年生の思い出です。名前も顔も忘れてしまったけれど、その節はお世話になりました(笑)

そんなこんなでアマチュア無線は小学生時代の私のささやかな楽しみになりました。世界中の人たちとの交信を通じて、自分の生活圏はとても小さく、その外には想像もできない世界が広がっているのだと知りました。そして幾度となく、ブラジルでの生活や、屈託なく遊んでいた友だちのことを思い出しました。

そのころには従兄弟たちも生まれ、8歳下の妹も生まれ、祖父母の家はまるで保育園。すこしでも祖母の負担を減らそうと子どもたちの日々の習い事がルーティンになるなか、私がもっとも打ち込んだのはバレエとジャズダンスでした。

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外の世界への憧れと、母が好きでよく観ていたブロードウェイのミュージカル。音楽教師の母の専門は声楽で、家にはつねに音楽があり、歌やピアノや作曲は物心ついたときからごく自然に馴染んでいたことでした。

外国に行ってミュージカル女優になろう。

そう決めたのは小学校5年生のころだったと思います。すっかり忘れていた英語を自力で学びだしたのもそのころ。NHKラジオ英会話のテキストを買ってきて、毎朝6時からの放送に合わせて起きてはひとり勉強に励んでいました。

成績優秀、模範的中学時代

中学校では孤独に拍車がかかりました。同業者なので先生たちは全員、私の両親と顔見知りです。入部したブラスバンド部でも、流れでやることになった生徒会長も、問題を起こさずにやりすごすことが私の日々の課題になりました。

成績は優秀でした。ダンスと勉強しかやることがなかったから。

とにもかくにも、広い世界に出て、ずっと感じていた不自由から解放されたかった。

高校は横浜にある外語短期大学附属高校という少々変わったところに進学しました。県立でありながら独自の語学教育に力を入れ、第二外国語や外国人教師、帰国子女クラスなど、私が切望していた自由な気風に溢れた学校でした。

地元を離れ、外へ外へ。古い上着はバッサリ切って捨てていく。


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