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やがてマサラ#11 書いて旅して人生の路地裏

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思ってこの半生記を書き始めました。

オリジナルは2020年2月に書いたもの。現在、その後出てきた新たな写真なども加え再構成、再掲しています。46億光年を振り返るのはなかなか大変、終わるのかしら……。

ブラジル時代の親友と再会

さて、私の大学休学はまだ続いていました。国立大学のよいところは、休んでいる間は学費を払わなくてよい点です(就職したくなかっただけなのを威張ってもしかたありませんが)。

映画武者修行のムンバイからは、さらに足を伸ばして初めてのヨーロッパへ。

ベルギーのアントワープにはブラジル時代の親友マージャが住んでいました。ブラジルから帰国して20年近く、お互い遠く離れてしまったけれど、家族ぐるみでの手紙やメールのやりとりはまだ続いていました。

マージャは私より少々歳上です。10代後半でブラジルから父親の故郷であるオランダに移り、19歳でひと回り以上年の離れたイタリア人男性と結婚。私はそのころまだ高校生だったので、マージャはずいぶんと先を行ったなぁと思いました。

「ひとりっ子で寂しかったから、早く安定した家庭がほしかった」

そんなことを言っていました。旦那様はファッション関係の会社を経営しているとても素敵な方で、子どもも生まれ幸せそう。

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ポルトガル語をすっかり忘れ、英語とおぼつかないフランス語しか話せない私。一方マージャは、欧州に来てからフランス語と英語を学び始めたそうで、普段使うフランス語はともかく、英語はちょっと苦手そう。子どものころのような丁々発止の会話ができず、「ミキ、ポルトガル語を忘れるなんてひどい!」と恨めしげに言われました。

子どものころ聴いていた歌は意味は忘れても覚えているもので、ブラジル人に会うたびに残念がられるので、そういうときはこの歌を歌ってお詫びをすることにしています。

"Cidade Maravilhosa"(美しい街)=リオデジャネイロの美しさを歌った曲です、私が住んでいたのはサンパウロですが(笑)。

20年以上前に私があげたキティちゃんの消しゴムや細々したシールなどを大切に保管した箱を見せてくれたマージャ。ブラジルからベルギーまでよく運んだなぁと驚きました。そんな友だちがいるのはとてもありがたいことです。

いまやマージャは4人の子どものお母さんになっています。子どもたちはもう私よりはるかに背の高い巨人に成長した模様。

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アントワープからは、パリ・ミラノへ。

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印象的だったのは、その後もパリに行くたび必ず訪れるルーブル美術館。あそこは何日でもいられます。好き。

ミラノでは空港から鉄道に乗り換えようとしたら道ゆく人々が私の顔を見ては口々に「ショーペロ」と告げていきます。なにかと思ったら……、ストライキのことでした。計画していた移動ができず、マジョーレ湖へ。季節は秋口。夏はバカンス客で溢れかえるというリゾート地は閑散としていて、寒々しい空の下ひとりぼっちでカフェなどに入ると東洋人の若い女子が物珍しいのかナンパばかり。イタリア人男性はほんとうに息をするように女性を口説くのだなぁと感心するとともに、実に、実に、わびしい初めてのイタリアなのでした。

初めてのヨーロッパは学生にはあまりにも物価が高すぎて、ものすごい早さで駆け抜けました。またいつか行きたいな、お金をたくさん持って。

突撃ライターデビュー

マレーシア留学とムンバイ映画修行、初めての欧州旅行を終えて帰国したときには、大学の前期講義はすでに始まっていました。

6年目、いよいよ卒業しなくてはならないにも関わらず、相変わらず就職活動への意欲はまったくありません(外大は8年間まで在籍できるので、当時は8年間丸々在籍している強者もわりといました)。

お勤めせず、別の方法で身を立てる方法はないものか……。考えた末、運営していた「ホームページ」を印刷し、旅行関係の出版社や編集プロダクションに「ライターとして使ってください!」と突撃営業。

いまでも思い出深い初めての仕事は、ムンバイとゴアに取材に行かせていただいた『格安航空券ガイド(双葉社刊)』のインド特集。

いまボンベイがアツいのさっ!
女の子のためのインドがここにあった! 買って、食べて、おまけに大好きなインド映画も観まくろう。あわよくばスクリーンの片隅に登場したりしてみて……。そして、日本に帰れば恒例の衣装大会が待っているのさ。やったるでインド。待ってましたインド。パリより、ミラノより、いまボンベイがアツいのさっ!

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この号は1999年に出たもの。巻頭グラビアの表紙は大好きなムンバイのMetro Cinema前。当時ヒットしていたアイシュワリヤ・ラーイの『Taal』の看板と同じポーズをキメています。ふざけていたらすかさず撮られた写真がそのまま表紙になりました。

当時もインドにはもちろん女性の旅行者もたくさんいましたが、若い女子がキャピキャピしながら旅をする雰囲気はあまりありませんでした。思えばこのころからミーハー路線のインド女子旅を世に訴えており(笑)、20年間しぶとく同じことを言い続けていると仕事になるのだなと感慨深いです。

このとき、企画の立て方から取材のしかた、写真の撮りかた、記事の構成や文章の書きかたなどを細かく指導してくれたのが、当時から既に敏腕編集者として名を馳せていた松岡宏大さんです。

『持ち帰りたいインド(誠文堂新光社刊)』『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる(玄光社刊)』『Origins of Art(Tara Books)』ほか、地球の歩き方arucoシリーズ、2020年3月刊行の改訂版『地球の歩き方 インド(学研プラス刊)』など数々の名著の著者でもある松岡さんには、以来ずっと折に触れたくさんのことを教えていただいています。私のプロフィール写真も松岡さんによるもの。足を向けて寝られない。

ちょこちょこと細かい仕事をくださるところもあり、記名の記事を書かせてくれるところもあり。ガイドブックや共著の旅本などに参加させていただいたのもこのころからでした。

カバー

旅行関係以外にもなんでもこなす職人ライターとしていろいろな媒体でいろいろな記事を書きました。某オジサン誌の「赤いパンツをはいて精力絶倫!」という記事のために泌尿器科の医師を取材にいったのが、ダントツで忘れ得ぬ思い出です。

人生の路地裏

一方、旅の資金のため効率よく稼げるアルバイトとして始めたのが夜バイト。いわゆる水商売ですね。赤坂に始まり六本木。そのあたりはまだ綺麗なお店で、時給稼ぎのやる気のないヘルプ要員として、気配を消して、いじめられもせず、定時出勤定時帰り、のらりくらりやっていました。本気の人から見たら腹立たしいと思います、ごめんなさい。

煌めく世界がまばゆすぎたのか、高い時給と引き換えに自尊心を売る綺麗な女の子たちを見たくなかったのか。その後流れたのは、別の街の場末感漂う路地裏のお店。安いお酒と安い香水の香りがいつも充満しているような、あけすけな下衆さをタバコの煙で目くらまししているような。

隣に同経営のフィリピンパブがあり、人手が足りないとよくそちらに呼ばれました。赤坂や六本木には決してなかった、オトーサンたちとフィリピンお姉さんたちの風景。スーッと奥に消えては戻ってくるオトーサンとお姉さん。フィリピンでは仕事がないという達者な英語を話す大学出のお姉さん。控え室で子どもに電話するお姉さん。乾いた明るさにときどき情念が絡みつく。

ほぼ毎日来て、その世界の才能ゼロ、まったくおもしろみに欠ける私を必ず指名してくれたお兄さん。外で食べればいいのに、出前をとって女の子を数人呼んで食事するためだけにお店に来る人でした。誰かと一緒に呼ばれることもあれば、ひとりで呼ばれることもあり、そんなときは話題に困って旅の話をしました。唇の端に笑みを浮かべて楽しそうに聞いてくれて、それ以上でもそれ以下でもなく、毎回サクッと1時間のご来店。お店のチャージと出前のチャージと女の子へのチップと。1時間のためになんて無駄なお金を使う人だろうと思いました。

1か月ほどインドを旅してお店に戻ったら、その人はもう来ていませんでした。いつもお店の外に待機している方々がいたので察してはいたけれどその筋の方で、そちらの世界でなにかがあったと。

お店のマネジャーが、事件の新聞記事を見せてくれました。ほんの数行の囲み記事でした。私が知っている名前とは違う名前で、その人がもういないことを知りました。

「あんた、こんなところにいないほうがいいよ」

そういえば、そんなことを言われたことが、ありました。



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