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やがてマサラ #2 放り込まれた異文化

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

放り込まれた異文化

カベッサ マーオ!(アタマわるい=「バーカ!」の意)

弟との喧嘩は、親に極力バレないポルトガル語でした。悪い言葉ほどよく覚えます、子どもは。

3歳、まだ日本語もあやうい時期。ブラジルのサンパウロにわたり、午前は現地の幼稚園、午後はアメリカンスクールという環境に放り込まれました。

昭和33年から38年間続き、名物だった祖父の年賀状には可愛らしく描かれました。孫が異国で真っ先に罵り言葉を放っていたなんて知る由もない祖父でした。

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自分が子を持ってしみじみ思いますけども、言葉が不自由な外国で他所様に子どもを預けるのは、本人はともかく親の思い切りも必要ですよね。両親ともまだ20代で若かったからできたのかなと思います。

両校とも日本人はひとりもいませんでした。サンパウロは日系ブラジル人が多い街で、かつ父の勤務先は商社などの駐在員の子弟が通う日本人学校だったので、日本人だけの環境で育てることもできたと思います。父は私をあえて現地の空気に触れさせたかったといいます。

まっすぐな黒い髪をからかわれたり、「中国人中国人ヤーイ!」と囃し立てられたりはしたそうですけれど。子どもなんて世界共通でアホですからね。

悪巧みは子どもの共通言語

記憶に残っているのは、オープンエアの園庭での給食の時間のことです。

いつも副菜として出てくる青菜(おそらくケール)のクリーム煮があまりにもまずくて大不評で、テーブルの下でこっそりリレーしては隅っこの誰かが地べたに捨てて土をかけてごまかすというチームプレーが横行していました。私もその悪行に加担して、そのあたりから馴染んでいったような覚えがあります。

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真っ黒に日焼けした私の写真を見て、祖母は「うちの孫はどこへいったの」と言ったそうです。このころ既に国籍不明になりつつあったのかもしれません。

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ダンスを始めたのもこのころ。なんせサンバの国ですから。

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両親は滞在中にあちこちを見て回ろうと、休みのたびに国内外を旅しました。

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祖母と弟の来ブラジル

弟が1歳になると、祖母が弟を連れて地球を半周してサンパウロにやってきました。生粋の江戸っ子で、おそらくいまはもう廃れてしまった江戸弁を話す祖母ですが、英語もポルトガル語もひと言も話せません。

「お肉屋さんで300グラム買うつもりで指を3本立てたら3キロ出されちゃったのよ」

それでもたくましく3か月滞在したそうです。

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長期休暇の際には、弟の布おむつを車の窓に挟んで乾かしながら旅をしたり。リオのカーニバル、マナウスからのアマゾン河下り、イグアスの滝、ペルーのマチュピチュ遺跡。ほとんど記憶がないのが残念ですが。

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サンパウロ近郊にあるカンポス・ド・ジョルドン(Campos do Jordão)という、日本で言うならば軽井沢のようなリゾート地には何回行ったか分からないけれど、街並みが可愛らしくて、いつも泊まっていたコテージでは、不思議な色の小さな鳥が羽ばたきながら花の蜜を吸うのが見られて大好きでした(あとからハチドリ(Humming Bird)という鳥だと知りました)。

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幼稚園も馴染み、子どもの世界ではあれどポルトガル語と英語に不自由もなくなり。父が運転するときは、道路標識を父が読み上げ、私がその意味を伝えるという役割もできました。

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当時は「お父さんはポルトガル語がペラペラ」と信じていました。実際、ペラペラはペラペラで、生活上も友人たちとのやりとりにもすこしも困っていなかったと思います。

のちにポルトガルに留学した弟が現地で父と行動をともにして「父さんのポルトガル語がいかにハッタリだったかいまになってわかった」と言っていました。コミュニケーションのなんたるかを象徴していますね(笑)

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「使う人」「使われる人」の一番古い記憶

家には通いの黒人のお手伝いさんがいました。彼女にはちょっと申し訳ない思い出があります。母が不在のとき、チョコレートを所望したら「奥様から禁止されているからダメ」と言われ癇癪をおこしました。

「あなたはお手伝いさんなんだから私の言う通りにすればいいの!」

あとから父に恐ろしい勢いで叱られた記憶があります。インドと関わるようになってから幾度となく考えた「人が人を使う」という関係性。思えばこれが、使う人と使われる人の関係を意識した一番最初のできごとでした。

たくさんの友人たちと

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オランダ人の父とブラジル人の母の間に生まれたマージャという仲良しの友だちもできました。お互いどこかにはぐれ者感をもっていたのか、彼女とは家族ぐるみでのお付き合いになり、週末には泊まりにくるほどに。

学校の友だちもしょっちゅう我が家に遊びに来ました。未就学で日本人社会とあまり縁がなかった私にとって、普通に仲よく遊べる友だちは楽しいブラジル生活に欠かせない、とても大切な存在でした。

かわいい孫が日本を忘れてしまうと心配した祖母からは定期的に船便が届きました。歌謡番組を録音したカセットテープや、明星のインスタントラーメン「チャルメラ」。キティちゃんの消しゴムみたいなこまごました雑貨はマージャとお揃いで。

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3年間の滞在ののち、日本への帰国。復路は父に先駆けて母がひとりで私と弟を連れ、ニューヨークやフロリダに滞在。広大なディズニーワールドは1週間ほど滞在したかしら。

帰国してしばらくは、お手伝いさんがつくってくれたブラジル料理を恋しく思い出しました。座布団のような巨大でふかふかのピザ、フランゴ(チキン)、バタータ・フリータ(フライドポテト)、カンジャ・デ・ガリーニャ(チキンのリゾット)。

バールでよく食べた臓物煮込みのフェイジョアーダ、膨大な量の肉塊に毎度圧倒されるシュラスコ。ポルトガル語はすっかり忘れても食べ物の名前はまだよく覚えています。

週末に父がよく連れて行ってくれた市場での一枚。私が切なげに見つめる先にはソーセージがぶら下がっています。

三つ子の魂百まで。食い意地はいまも張っています。

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おまけ。祖母に代わり今度は祖父がブラジルを訪れたときの旅行記が活字に残っていました。ガソリンを車に積んで走るのは違法だそうですが途中にガソリンスタンドがないような荒野を走るのだからしかたないですよね。婿殿(私の父)と警官とのやりとりがまるでインドのようです。でも、賄賂と、交渉成立したあとに罪悪感なく調子がいいのはブラジルならではかな。

ちなみに、皆さんお察しかと思いますが、オチの部分で寝たふりをして警官の追及をかわした6歳児はわたくしです。はい。

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