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やがてマサラ#8 山登りとインターネット黎明期

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

アンナプルナ内院へ

さてインドデビューの翌1998年はネパールでヒマラヤトレッキングに行きました。

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アンナプルナ内院をぐるっと回る10日間ほどのコースです。体力のある西洋人などは半分くらいの日程で行っていました。

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毎日毎日、石段が続き、上がったり下がったり、いくつもの山脈を越えてじりじりと高度を上げて行きます。3,000メートルを越えるまで民家があり、優しい地元の人との触れ合いや、自分の足で歩き続ける"Everything under my control"(すべては自分の管理下にある)感じがとても楽しかったです。石段が足の短い私には絶妙にしんどい高さで、午前中の移動で体力に限界がきて午後は山小屋でダラダラ山を見て過ごすというのんびりした行程でしたが。

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こちらは3,700メートルのマチャプチャレ・ベースキャンプにて。背後には6,993メートルのマチャプチャレ(の端っこ)。

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ここの山小屋で吹雪で何日か閉じ込められたあと、一瞬見えた晴れ間に出発した西洋人たちの後を追って、私もこの上のアンナプルナ・ベースキャンプ(4,130メートル)へ向かいました。山の天気はころころ変わるといいますが、案の定、また吹雪いてきました。

あっという間に降り積もった雪で先を歩いた西洋人たちの足跡もすべて消え、どこを見ても真っ白な世界がとても美しくて見惚れ(高度で頭が少しおかしくなっている)、方向感覚もなくなり、その場に立ち尽くしていたら。

後ろからやってきたシェルパのオジサンに「おーい、大丈夫か。俺が足跡をつけていくからそれを辿って来な」と声をかけられて、自分に何センチも雪が積もっていることに気づき、慌てて登りを再開しました。シェルパのオジサン、その節はありがとうございました。ザッザッと雪を踏んで歩いていく後ろ姿がとてもカッコよかったです。あっという間に見えなくなったけど……。

真っ白な雪と山の頂に囲まれた世界は美しいけれど生命の気配がなく、ベースキャンプから降りてきて山あいのトレッキング道を歩いていて初めて生き物に遭遇したとき「うひゃっ」と驚いてしまいました。

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アフリカ上陸、キリマンジャロへ

山にはちっとも懲りず、数年後にはタンザニアでキリマンジャロに登っていました。 4日目までは自然豊かなハイキングという感じでした。

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余裕たっぷり、楽しそうです。

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このときも3,000メートルを超えるあたりから高山病にやられ、ベースキャンプのあるキボハット(4,700メートル)から1,000メートルもの高低差がある頂上へのアタックは、もうろうとした頭ともつれる足のせいで亀の歩み。

途中で見た、雲海に登る朝日はそれはそれは綺麗でした。一気に頭の霞が晴れて、お天道様の光は偉大だなと思いました。

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キリマンジャロは必ずトレッキング専門ガイドを帯同しないといけない山です。私の食事用の鶏(生きてる)やザックなどの荷物を運んでくれていた筋骨粒々のガイド氏に「おまえ危ないからもう降りろ」「No」「死ぬぞ降りろ」「嫌だ登る」と押し問答を繰り返し、意識が飛びそうになると頬をペチペチとはたかれながら、最後は唯一手に持っていたカメラを握る力もなくなりガイド氏に押しつけるテイタラク。

見上げると氷河が。

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そしてやっと辿り着いた第一のピーク、ギルマンズ・ポイント5,681メートル! 最高ですよ。ヨレヨレだけど。

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7時間かかった高低差1,000メートルの頂上アタック、なんと下りは同じ道のりを30分。登りでは足をとられて悪態をついてばかりだった砂地のような地面は、ザーッ、ザーッとスキーのように滑り降りるには実に楽しかったです。

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5日かけた行きの行程も下山は1日。居合わせた青年海外協力隊の隊員の皆さん(行きは抜かれた)とアフリカ地名しりとりをしながら駆け下りたらあっという間に麓でした。アフリカには「ん」で始まる地名があるという大発見!

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※高山病は適切な判断をして、危険な状態になる前に下山してくださいね。

インターネット黎明期

さて、インドデビューやヒマラヤトレッキングなど日々楽しいことが続くなか、それをおもしろおかしく話していた人から、インターネットというものの存在を聞きました。最初に触らせてもらったのはWindows95機でした。

「ホームページを作って、きみがいま話しているようなことを載せてみたら」

そんなようなことを言われた覚えがあります。内心「この予算があればあと3回は旅に出られるよな……」と思いつつ、当時から新しい機器類が大好きだった私は30万円ほどするIBM社製のデスクトップ型PC『アプティバ』を分割払いで手に入れました。電話回線で「ピーヒョロロ」とつなぐインターネットプロバイダーとも契約。HTMLのハウツー本を買い込んで、なんとびっくりの手打ちでHTMLを書いてサイトを開設しました。

『されどマサラ色の日々』。なんと青くさくて恥ずかしいサイト名でございましょう! その後1999年の2度目のネパール、首都カトマンズの古本屋さんで『されどわれらが日々―』(柴田翔・著)という小説を見つけて「わ、パクられた!」と一瞬思ったのは若気の至りです。1964年の芥川賞受賞作でした。ハハハッ!

「ホームページ」では、自分の旅の話を書きつづったり、まだSNSがなかった時代、BBSと呼ばれていた掲示板をほかのサイトの運営者同士で訪問し合ったり。私はものすごい源氏名……ではなく「ハンドルネーム」を使い、さらにまだ人口の少なかったインターネット旅人界では「姫」などと呼ばれていました……。

「マサラ色ってなんですか?」とはしょっちゅう聞かれた質問。どんな色かはいまだにわからないけれど、「マサラ」という言葉はある程度定着したように思います。素晴らしい!

さてこの大切な相棒アプティバは1998年のペナン島の留学にも持って行き、留学日記を書いたり、インド映画のVCD再生に大活躍してくれました。

あれから何台のPCを買い換えたか覚えていないけれど、中身のデータは代々引き継いできています。PC内に残っていたこのサイトの記事や日記を読んでいたら背中がムズムズしてきまして、深い穴があったら入りたくなり軽く半日ほど地球の裏側まで行ってきました……。

なんでこんなに恥ずかしいのでしょう、若いころのイキってる感じって。きっとこの記事も20年後にみたら赤面ものなのでしょうね。

帰国の際はブラウン管のモニターが預けられなくて、担いで機内持ち込みにしたという、どうでもいいことをたったいま思い出しました。

青くさい青春はもう戻らなくてよい。私はいまの自分が好きです。



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