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やがてマサラ #4 洒落者と道楽

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

母方の祖父のこと

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昭和20年7月
私たち陸士(陸軍士官学校)60期航空士官候補生を乗せた輸送船は爆沈により舞鶴湾の粗大ごみとなった。私の持物は身につけているもの以外、すべて消失した。
その前に東京都渋谷区竹下町19のわが家は茶碗のかけらすら残さず消滅していた。それでもどこからか出てきたのがこの写真

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大正生まれの母方の祖父は、陸軍士官学校卒業の年に終戦を迎え、GHQの通訳を経て官僚の道へ。東京下町の米問屋の七女だった祖母とは見合い婚でした。

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私が生まれたときには退職し税理士事務所を経営していたので、官僚時代の祖父母のことはあまり詳しく知りません。私にとっては、博識で芸術を愛し着道楽で洒落者の祖父と、おおらかで働き者の祖母でした。

祖父の年賀状シリーズは昭和33年に始まったそうです。祖母が美しく描かれていて大好きな一枚。

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翌年には天皇皇后のご成婚を取り上げていました。テニスのラケットを抱えて仲睦まじいご様子と、しゃもじ片手の祖母におひつを抱えた祖父が引きずられる様子が。

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祖母から麻雀とお酒を厳しく怒られていた模様。

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若くして糖尿を患った祖父は医師の忠告などまったく聞かず、ステーキにトンカツにざる蕎麦に大福と鯛焼きを一気にたいらげるような健啖家。初孫の私を溺愛し「人付き合いにお金を出し惜しみするな」と言い、ねだったものはすべて買い与え、顔を見せると頼む前から1万円札を出すようなおじいちゃんでした。お小遣いをもらいすぎて、父からはたびたび苦情が出ました。

理想の夫婦像

もっとも好きなアルバムから。江の島を背景にお互い撮影し合ったらしい、仲良く戯れる祖父母の写真がお気に入り。

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よく働きよく遊び、奥さんが大好きで孫の前でもいちゃいちゃする。博識な祖父に、女学校時代はすべて戦争で終わった祖母が漢詩を習い、書をたしなむ。祖母は料理が得意で、ハイカラ好みの祖父のために「洋食」をたくさん作っていました。夫の三歩あとを歩くような祖母。いまは時代が違うけれど、私の理想の夫婦です。

ちゃきちゃきの江戸っ子の祖母は48歳で私が生まれてからは次々増えた5人の孫たちの世話に明け暮れました。来年は祖母が祖母になった年齢に自分がなるなんて、いまだ半端者の私には想像もつきません。

「先生、先ほどトンカツ大盛り召し上がっていかれました。ビールと、そのあと鯛焼きも」

食事制限必須だったのにまったく守らなかった祖父。税理士の顧問先のお店であれこれ平らげては入る密告電話を受け、それを祖母に報告するのが私のお役目でした。

いつだったかグアムのホテルの朝食ビュッフェで、祖母と私でタッパーに午後のおやつ用のパンをこっそり詰めていたのを見つかり、「そんなさもしいことをしてはなりません」と厳かに叱られたことがありましたっけ。いまでも時々ほんのちょっとだけやりますけども(笑)、そのたびに祖父の顔がチラつきます。

洒落者の生涯

オペラから浪曲まで。漢詩から落語まで。いつもパリッとお洒落で、顔が広く、どこへ行っても豪快なお金の使い方をする祖父。晩年は糖尿が進み、視界が霞み、歩くことが困難になり、記憶があやふやになり。少しずつ弱っていきました。病院のベッドでみかんを食べさせてあげると子どものようにニコっと笑っていました。

平成8年、最後の年賀状は、ねずみに筆を持っていかれた祖父が手探りで筆を探す絵でした。祖母が傍らで、「あそこですよ」と指し示す。元気だったころの、力強い線で描かれた絵とはまったく違う、ガタガタの絵。見えない目でそれでも描いた祖母は穏やかに笑っている。

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祖父の銀行口座は、お葬式を済ませたらすっからかんだったそうです。「きれいに使い切ったねえ〜」と一同、口あんぐりだったとか。私は多分にこの祖父の気質を受け継いでいると思います。

母方の祖母のこと

孫5人の世話を一手に引き受けていた祖母は「お尻が大きいのがとてもよいと思った」と祖父に言われるような、小柄だけれど頑丈な人でした。

「戦争中、食べるものがなにもないのにちっとも痩せて見えなくて、あそこの家は食糧を隠し持っているんじゃないのって言われてとっても困ったのよ」

48歳という若さで私が生まれ、その後ずっと孫たちの世話に明け暮れた人です。女学校は行ったけれど戦争中だからなにも勉強せずに終わってしまったといい、祖父を家庭教師に漢詩を学び、書を書いたりしていました。

難しい漢字ばかり並んだ大作に取り組んでいるので意味を尋ねると「実はよく分からないの」と真顔で言いながら真剣に座卓に向かっていました。

大学時代には香港やシンガポールに祖母と旅をしました。

地名もなにもまったく覚えない祖母ですが、シンガポールでは「あそこのエビチリが美味しかった」とあまりに繰り返すので、あそこ(=マンダリンオリエンタルホテル最上階)のレストランで連日エビチリを食べました。当時ビンボー旅行にハマっていた私は「美味しいけど高いな……」と内心お会計時にいつもヒヤヒヤ。いや、支払いは祖母のお財布からでしたが。

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私がのちに海外を大放浪していたころは、一時帰国するたびに祖母と食事に行きました。歳をとると食が細るといいますが、おばあちゃん、よく食べたなあ。

祖父亡きあとも病気ひとつせず、昭和元年生まれの祖母はとても長生きしました。ひ孫である娘の顔を見せられたことが、ずっと私の心配ばかりしていた祖母への唯一の恩返しかもしれません。

祖父母からカレー経由ひ孫へ

戦前、祖母の実家は東京下町の巣鴨。冒頭の通り、祖父の実家は東京大空襲で跡形もなく焼けた東京都渋谷区竹下町。いまの原宿・竹下通り付近です。

娘にねだられて、たまに竹下通りを歩きます。女子が大好きな刹那的なキラキラが溢れた街に、異国のカレーの香りがする自分のルーツがあるというのも不思議な縁だなと思います。

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