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やがてマサラ #5 南朝鮮からの脱出

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

祖父母の終戦

父方の祖父母は山梨の生まれ。

教師をしていた祖父は日本統治下の朝鮮へ。祖母は16歳のときに、写真でしか見たことのない祖父の元へ船で向かい、嫁ぎました。

咸鏡南道(ハムギョンナムド)という、地理的には現在の北朝鮮に位置する場所で、日韓併合という時代に朝鮮の子どもたちに日本の教育をしていたのが祖父です。

昭和20年8月15日。玉音放送を聞いた祖父は駐在所で銃を譲り受け、自宅に戻りました。昨日までの支配者があっという間に犯罪者として扱われる立場になったのでした。家族を守るため、日本の敗戦を一般の人々に知られる前に脱出せねばなりませんでした。銃は、いざというときの自決のためのものでした。

日本軍の捕虜がロシア兵に連行されるのを息を潜めて見ていたという伯母や伯父。夜になると女性を探しにくるロシア兵たちを酒やタバコでもてなし気を逸らせたという祖父。

祖父は秘密裏に準備をし、多くの同胞とともに家族を連れて港へ向かったといいます。南鮮へ向かい、日本への脱出を試みたのです。女たちは髪を切り顔を汚し、子どもたちを連れての逃避行。

道中、力なく泣く我が子の口に布をつめ、みかん箱に入れて山道の脇に埋めた母親がいた……という話を、当時6歳だった伯母の手記で読みました。

港で漁船を買収したものの出航直前に発覚してしまい、祖父は責任者としてロシア軍に連行されました。追いすがる伯母は兵士に罵られ足蹴にされなす術もなく、祖母、伯母ふたりと伯父はそのまま計59名の同胞とともに出航。

しかし船は日本海の荒波に翻弄され、北緯38度線を突破したところで転覆してしまいました。当時妊娠していた祖母は自力で海岸まで泳いだそうですが、3人の子どもたちは全員死んだと思ったそうです。上のふたりも岸に泳ぎついており、筵(むしろ)をかけられていた2歳の伯母は祖母の必死の手当てで唸り声を上げて息を吹き返し、奇跡的に全員が無事でした。

59名が半数になっていたなか、一家全員が命をとりとめたのは祖母と子どもたちだけだったそうです。

その後、進駐していたアメリカ軍に保護され、脱出から2か月以上経った10月下旬に日本に帰国。山梨の祖母の実家にたどり着いた2日後に、ひょっこりと祖父も帰ってきたそうです。

そして、続いていく

その後は畑を耕しながら、静岡まで水晶や判子の行商をする祖母、地元で教職に戻った祖父。のちに私の父が5人きょうだいの末っ子として生まれました。

全員を国立大学に行かせた祖父母の苦労はいかほどだったのか、私には想像もつきません。長男の伯父は日本に灯りをともすことを志して東京電力へ、ほかの4人は祖父と同じ教職に就きました。

父方のいとこは11人います。私は末っ子の長女、つまり孫としてはおしまいのほうで、山梨からは遠方だったこともあり、母方の祖父母ほど日常的に交流があったわけではありません。

それでも夏休み、冬休みには14人の孫が勢揃いし、祖父の取り仕切りで歌や楽器演奏などを披露していました。教師ばかりの家系だからなのか、事あるごとに短歌や文章をまとめた文集をつくるような一族で、この記事も祖母の一周忌にまとめた文集の伯母の記録をもとに書いています。

山奥の大きな家のだだっ広い畳の部屋や、庭の大きな柿の木、いつもなにかしらの野菜がある畑、裏山のしいたけ栽培、秋になるとたくさんの実を落とした栗の木。母方では最年長で威張っていた私も父方では妹分になれ、年かさのお兄ちゃんたちにはずいぶんと遊んでもらいました。

私がまだ小学生のころだったでしょうか、いち早く太陽光発電に目をつけ、薪でわかすお風呂にソーラーパネルで発電した温水を導入したのも祖父でした。

自分ではいまいちわからないのですが、家族によると、嵐のなか身重の身体で海岸まで泳ぎきった祖母に、私は顔立ちがよく似ているそうです。小さい人でしたがいつもエネルギッシュで、余裕が出てからは日本舞踊を始めたり、婦人会を取り仕切ったりと精力的に動き続けました。

イギリス在住だったころ、一時帰国の際にフラッと山梨の祖母を訪ねたことがあります。そのころはすでに認知症が進んでいた祖母ですが、私の顔を見るなり「美樹」とはっきりいい、ときどき辻褄が合わなくなりつつも話をすることができました。ヘルパーさんいわく、私が帰ったあとはこんこんと眠ったそうです。

朝鮮で朝鮮の人々に教育勅語を強いた側の人間だった祖父が、戦後の日本に対して、そして朝鮮に対して、どのような気持ちでいたのか私にはわかりません。

私が覚えているのは、流暢に朝鮮語を話し、お酒が入ると朝鮮語の歌を歌っていた祖父のこと、そしてお葬式には祖父の朝鮮人の教え子たちがはるばると弔事を送ってきてくれたことです。

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