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晴れときどきマサラ #14 映画館を作ろうとした曽祖父のこと

みなさんこんばんは、楽しいインド案内人アンジャリです! 先週は茨城県唯一のミニシアターあまや座さんのインド映画特集でトークイベントに呼んでいただきました。

とても素敵な映画館で、映画も好きだが映画館も好きな私はすっかりファンになりました。そしてふと、母方の曽祖父のことを思い出したので、以前のブログから再掲します。ちょうど5年前の記事だ!

(以下、2017年4月18日公開)

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ときは流れて因縁巡る

2015年の秋、インド映画をもっと普通に日本で観たい! いつかインド映画専門の映画館をつくるぞ! と鼻息荒く宣言し、インドのあれこれをもっと紹介せねばと開設したのが”インド情報Webマガジン Masala Press”。直後、母からため息まじりに「映画に心を奪われるとは、血は争えないのか。実はこういう話があって」と聞かされたのが「映画館を作ろうとした」曽祖父の話です。

『人は「パン」のみにて生くるものに非ず』とか人は一日と雖(いえど)も慰安なくしては生くるものに非ず如何なる時代如何なる場所たるを論ぜず民衆娯楽の存在を見ざるなし。

昭和7年。1932年。Wikipediaによるとこんな年です。東京下町の片隅で「株式會社城北映書劇場設立趣意書」なる事業計画が発案されました。手広くコメの商いをしていた母方の曽祖父が、お寺の住職に持ちかけられて発起したものです。

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叶わなかった劇場設立

しかし、曽祖父は、住職に準備金を持ち逃げされたのでした。この「城北映書劇場」計画は泡となって消えました。女ばかり7人と末っ子の男子の8人の子を抱え、曽祖母は大変な苦労をしたと聞きました。

そして南方で戦死したという祖父の実弟は、戦前は男性ダンサーがいたという松竹歌劇団のタップダンサーだったそうです。

いずれも大人になってから知った話だというのに、なんといいますか、2017年を生きる私が、インド映画だのインド古典舞踊だのに息巻いているこの現状、やっぱり因縁ってあるのねと思わざるを得ません。

事業目論見書

その後、”チャーリー -Charlie-“(マラヤーラム語映画)の配給をすることになり、曽祖父のこの話と合わせて母と法事の席で話していたら、曽祖父の末っ子の妻、私からすると大伯母が「こんなものがまだあるのよ」と、持ってきてくれたのが、事業目論見書の写しです。株主への領収書の金額や日付は空白のまま。ここまで用意して、逃げられた、と。出資者を募る前なので、被害が曽祖父だけだったのが不幸中の幸いなのか、なんなのか。

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85年を経たいまとなっては完全に過去の話なので、チケット代や「女給」給料や、リアルな金額がわかって興味深いです(笑)。昭和初期の1円の価値はいまの1,500円くらいだそうですよ。

いつの世も、人はパンのみにて生きるにあらず。しかし夢だけでは人はパンを食っていけません。

大風呂敷を広げたり、小さい自分を大きく見せようとしたりではなく。

一歩ずつ着実に足場を固めていく。専門知識や専門技術の前には謙虚でいる。そして文明文化というものは、戦いのない平和な世にしか受け継いでいけないものだから、なによりも世界の平和を願う。

そんなことを思う春の嵐の日です。

(再掲ここまで)

2022年のいま

2015年のインド映画をもっと普通に日本で観たい! いつかインド映画専門の映画館をつくるぞ! という意気込みは、「どうせならそのビルにはインド料理店やスパイス屋やインド服屋やアーユルヴェーダクリニックやその他もろもろインドの楽しいことを全部取り揃えてしまえ」という野望になり、会う人会う人にそんなことを語っていた時期がありました。

そしたらですよアナタ。今年の4月1日の早朝に、こんなツイートが目に飛び込んできました。

なんと! 私が思い描いていた夢を、実現させた人がいる! と一気に目が覚めましたが、諸々の事情で、30秒後には「あ、これは、今日は4月1日のアレか」という確信がありました。

1日が終わり、ネタバラシがあり。そして素晴らしいと思ったのが、この「エイプリル・ドリーム」を企画した人たちが、夢を夢のままで終わらせないアツい人たちだったということです。

もうこの記事からしてアツい! アツい! アツすぎる!

私はインド映画から、そしてこの"マサランド"企画者の皆さんはカレーから。それぞれ動機は違うのですが、同じようなことを考える人はいるし、この壮大なドリームに乗っかって楽しむ人たちがたくさんいたことは、とても嬉しい2022年の出来事でした。

曽祖父の映画館の構想は、なぜかひ孫の私に受け継がれた…のだと思います。


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