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晴れときどきマサラ #9 海とミールス、夏休みのにおい

ああ、夏休みのにおいがする。

駅から2.5キロ。タクシーに乗ればあっという間の距離。伝えた時間よりちょっと遅れてしまうけど、歩こう、と思った。

両側を田んぼに挟まれた、駅からのまっすぐな道をてくてく歩く。風に乗って届くほのかな潮のかおり。昼間の暑さの名残りをはらんだ夕暮れどきの陽射し。

そこはかとなく漂うのは、なぜここで……? と不思議になるような、バナーラス近郊の農村のにおい。牛糞を大切な燃料とし、そこここに加工した牛糞燃料を積み上げた村の、たまらなく郷愁を誘う、あのにおい。牛の姿は見えないけれど。

九十九里浜のミールス専門店

目指したのは、南インド料理研究家・真更 薫(まさらかおる)さんが期間限定で営業しているミールス専門店。

きょうび、私が住む東京都下にはたくさんの南インド料理店がある。バラエティ豊かなインド料理を楽しむことができ、なかには珍しい地域の珍しい料理もあれば、お酒と楽しむような進化したネオインド料理的なお店もある。「インド料理といえばバターチキンとナーン」といっていた時代はとうに過ぎた。

だからインド料理が恋しくなってもお店には困らない。でも、どうしても訪れてみたかったのは、薫さんと妻の早紀さんが、どんな場所で、どんなお店で、どんなお料理を提供しているのか、知りたかったから。

謎の肩書き『南インド料理研究家』

Clubhouseという音声SNSがある。薫さんとはそんななかでインド関係のトークルームで知り合った。

Clubhouseで気づいたことのひとつに、顔やファッションと同じように、発声や話しかたにも人柄が出るということがある。視覚情報がないだけに、より顕著に。

薫さんの印象は、誠実な人。知らないことを知らないといえる人。インドでミールスを食べたときの衝撃を語る、まっすぐな言葉が心に残った。しかして経歴はまったく謎で、なぜミールスに辿り着いたのか、その前はなにをしていたのか、見当もつかなかった。

肩書きに、カレー好きでもなく料理人でもなく「南インド料理研究家」とつける人とは、どんな人物なのか。

ミールスみたいなふたり

その後何回かリアルで妻の早紀さんも交えてお会いする機会があり、おふたりのちょっとしたやりとりからうかがえるコンビネーションのよさに、すっかりファンになった。息の合ったご夫婦というのだろうか、なにもかもがしっくりする。記録用に回していた動画のどこを切り取っても、ふたりとも自然で穏やかないい顔をしている。

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薫さんの場合、調理をするのは主に薫さんおひとり。でもこの方のお料理は、早紀さんとふたりで作り上げているのだなと思った。彩り豊かでバランスがよくてお腹も心も満たされる、ミールスみたいなおふたり。

夏休みのにおい

薫さんと早紀さんが期間限定で切り盛りするお店は、砂浜まですぐのところ。到着するなり荷物を置いてiPhoneだけもってお店を出た。東京から弾丸往復でやってきたのであまりゆっくりはできないけれど、せっかくここまで来たのだから海を見たかった。

海は、いいね。最高に幸せだった1日を何度でも思い出せる。

日曜の遅めの時間、お客様の来店が続いていて、自分のお店ではないのに「ムフフ」と笑みがこぼれた。ひらひらとバナナの葉が敷かれたテーブルに、がらがら押されたワゴンが登場。丁寧な解説つきで葉っぱの上にミールスが完成していく。このサーブスタイル、南インドだわ。

進化していくお料理

ひとつひとつの料理が、どれだけ手間隙がかかっているか。私もすこしだけ自分でインド料理を作るから、その工程はだいたい想像できる。

何十種類ものスパイスを使うとか、一昼夜にわたり煮込むとか、そういう大変さや大仰さはおそらく南インド料理にはそれほどない。その手のスペシャルなお肉カレーは時間がかかる反面、楽な点もある。肉の出汁で味が決まりやすいし、使う食材もメインの肉のほかには玉ねぎやトマトや、ほんの数種。

それよりも大変なのは、野菜をふんだんに使う菜食メニューのほう。何種類もの食材をひたすら洗って刻んで洗って刻んで洗って刻んで。人手がたくさんあるインドの厨房なら人海戦術で容易なことも、ひとりでやるとかなり気が遠くなる。地味かもしれないが滋味あふれる。それが南インドの菜食料理。

8月のデトックス・キャンプの企画を思いついたとき、専属シェフは絶対にこの方にお願いしようと思った。効率化や時短という観点は実店舗の提供では要になるけれど、3泊4日の限定的な時間、そうではない別の観点からのお料理を提供してみたい。かけなくてはいけない時間は、お料理にも人生にもきっとある。

薫さんの料理は、知識と経験とご自分の感性との組み合わせで、きっとこれからもっともっと進化していく。そのいずれの過程においても、美味しくないわけがない。ならばごくごく最初のスタートからずっとその変化を追いたい。そんな野望が、私にはある。

満腹。しあわせ。


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