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映画『Mumbai Meri Jaan(我が愛しのムンバイ)』を観て極私的なインドの多様性を思う

皆さんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。

せっかく会社をつくったのに表に出せる案件がありませんで申し訳のうございます。仕事遅いなと自分でも思いますハイ。

今日は久しぶりに映画のことなど。『Mumbai Meri Jaan(我が愛しのムンバイ)』という2008年の作品です。2006年に起きたムンバイ近郊での列車爆破テロを巡り、属する階級や暮らしぶりがまったく異なる5名の物語を巧みに織りまぜた作品。

日本公開はなく、日本語字幕のDVDもない作品、おまけに重いテーマ。本記事は物好きなアナタ向けです。私は中古DVDをフランスの業者から個人輸入しました。ちなみに字幕なしバージョンのフルムービーはYoutubeにあります(公式ではないようなのでリンクは貼りません)。

炎上動画のこと

さてこちら、わたくし大好物の愉快な娯楽作品ではありません。歌わないし踊らない。なぜそんな作品を観ようと思ったか。それはもうひとえに、敬愛するバンガロール在住の坂田マルハン美穂さん「傑作!」と仰っていたからです。

もうひとつ大きな理由は、5月初旬のGW中に突然起きた、さるYoutuberグループによる「インドを侮辱する」内容の楽曲のこと。私自身は、深夜の初見は眠たい目でうっすら眺めていたら「インド映画のダンスシーンのようなダンス&フォーメーションに凝ったカメラワーク、リズムやサビも楽し〜!」という能天気なものでしたが、翌朝改めてちゃんと見たら実に破壊力のあるシロモノでした。

案の定、インド側で大炎上。さらに悪いことには日本側の当該グループのファンには「なにがそんなに怒らせるのか分からない。インド人、過剰反応しすぎじゃない?」といわれてしまう。

そのへんの理由や参考資料はくだんの美穂さんのブログに十分すぎる記述と資料がまとまっていますので皆さんどうかご一読ください。私が合いの手を入れさせていただいた対談のPodcastもあります。

この一件を自分なりに考えたときに浮かぶのは

「やっぱりインドって日本人からしてみたら遠い国だし、インド人に対するステレオタイプはきっとどこまでいってもターバンとカレーなのだろうな」

という、インドと関わり出してから24年間の長きにわたり、ずっと変わらず感じてきたこと。私個人がどれだけ日々発信し続けても、インドの実情を包括的に伝えることは不可能です。

それでも、こよなく愛してきた「映画」という媒体を通じて、そこにごくごく個人的かつあまり役には立たないエピソードなどくっつけて書き残すことで、誰かの心に刺さるかもしれない。そんな想いで書きます。

Meri Jaan 愛しい人

タイトルにある"Meri Jaan"は、直訳すると「My Life」になるかと思います。この言葉は、主に恋人同士の呼びかけで使われるのではないかしら。「我が人生そのものともいえる大切なあなた」という意味ですね。英語のHoneyとかDarlingに近いかもしれませんが、普段の呼びかけに使うというよりは、もうちょっと甘く情熱的な状況で使われるような気がします。ちなみにインドの友人に真顔で言われたことも何回もありますが、もちろんそれは冗談です(笑)

そんな意味合いで考えると、この作品はタイトルにすべてが込められています。ムンバイ(Mumbai)という街への憧憬と愛おしさ。この街には私自身もおおいに想い入れがあり、半生記を書いた長〜いエッセイ『やがてマサラ#10 我が青春のムンバイ』にあれこれ書いていますのでよかったら読んでね。

ムンバイという街についてのデータ的なことはWikipediaをぜひ(手抜き)。ここでお伝えしておきたいのは以下の3点。

1. アラビア海に面した巨大な商業都市で、古くから交易で栄えたため外国からもインド国内からも人が集まる
2. 映画産業が栄え、いわゆる「ボリウッド」と呼ばれるヒンディー語映画の製作の本拠地である(ムンバイは1995年に改名されるまではボンベイ(Bombay)と呼ばれ、ハリウッドと掛けて『ボリウッド』という名称が生まれた)
3. そのような巨大都市なので、インドの地方の保守的な村社会ではありえないような、生まれや身分に因らないサクセスストーリーがありBombay Dreamsとして語られる背景がある

私個人の肌感覚でも、政治の中心であり保守的な首都デリーと比べると人々の気質や街の雰囲気も自由で、「おらムンバイ来ただー」と夢を見られる土壌があるのかなと思います。

そのへんのボンベイドリーム的なことは「映画『あなたの名前を呼べたなら』:自分の足で歩くという自由」という記事でも書いているのでよかったらそちらもぜひ(今回寄り道だらけの記事だな!)。

ネタバレについての前置き

さてここから作品そのものについて書きます。ネタバレは盛大にします。ただいつも思うことなのですが、インド映画は少々ネタバレしたところで、その魅力は1ミリも減りません。特に英語字幕しかない本作は、あらすじやその他の予備知識をもって観たほうがより理解が深いと思います。

以後、私の解説はひじょうに偏るので、整った解説はぜひ美穂さんのブログ「テロと生死と報道と。個人的に傑作だと思うインド映画『MUMBAI MERI JAAN』」で読んでね。丸投げ感すごいけど、これ以上に整ったものを私は書けない!

というわけで、まずは主要な登場人物について好き放題、社会構造的な上流から順に、下記に述べる!

富裕層子女ルパリ(ソーハ・アリ・カーン Soha Ali Khan)

ムンバイお金持ちエリアの高層マンションに住み、テレビのレポーターという花形の職についている若い女性。裕福な家庭に生まれ育ち、幼いころから英語の私立校で教育を受け大学を出て、自分の考えや意見を述べることにもなんら障壁がない……といった人物設定。

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この女優ソーハ・アリ・カーンさん、ほかの映画で見たことはないのです、どこで見たんだっけと思ったら、サイフ・アリ・カーン(Saif Ali Khan)の妹さんとして家族写真などで眺めていた方でした。

この兄妹はパシュトーゥン系のナワーブ(太守)で有名なクリケット選手の父と、60〜70年代のボリウッド界で活躍した女優の母という生まれで、父マンスール・アリ・カーンの家系もさることながら、母シャルミラ・タゴールはインド国歌をつくったあの詩聖ラビンドラナート・タゴールの遠縁。

兄サイフは私がインド映画を見始めた90年代は「ええとこ坊の優男」という感じで、13歳年上の女優アムリタ・シンとハタチそこそこで結婚し、ロマンティック・コメディなどで活躍していました。アラフィフとなった現在は顔面偏差値高めの色気ある中年になっており、Netflixオリジナルドラマ『聖なるゲーム(Sacred Games)』では苦味走った渋いシーク教徒の警官を演じています。2度目の妻は『きっと、うまくいく(3 idiots)』『バジュランギおじさんと、小さな迷子(Bajrangi Bhaijan)』のヒロイン役カリーナ・カプール。

いかん、お兄さんのことで盛り上がっている場合じゃない。つまり女優さんとしてはよく知らないけれど、やんごとなき生まれで映画界にも縁が深い人です。夫は異色のインド発ゾンビ映画『インド・オブ・ザ・デッド(Go Goa Gone)』でチャラいあんちゃんの主演を務めたKunal Khemu。サイフも出てるしソーハもカメオ出演。ゴアで繰り広げられるゾンビ掃討作戦、馬鹿っぽさ全開で面白いから観てね。

下記、華麗なる家族写真をネットの海から拝借。やー、この一族はほんとゴージャスだわ。

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中上流ホワイトカラー・ニティル(マーダヴァン Madhavan)

グローバル企業に勤めるニティル。パリッとしたシャツに身を包む。安定した仕事と不自由ない暮らし。そんななかで環境問題を憂いており、冒頭から「ビニール袋はよくない」などとバナナ売りのオジサンを諭したり、排ガス問題に自ら取り組むため自家用車ではなく列車で通勤するという徹底ぶり。

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演じるマーダヴァンを最初に見たのは2005年のイギリス在住時にインドへ行った帰国便機内の映画『Ramji Londonwaley(ラムジー、ロンドンで働く)』

朴訥とした田舎のあんちゃんを演じた彼が最後に大金を手にした際のスピーチに、CAさんに「大丈夫ですか?」と声をかけられるくらい泣いた(機内映画で号泣するなよと毎度思うけど、いい映画たくさんあるんだからしょうがない)。この作品については昔のブログからnoteの別記事に転載したのでよかったらどうぞ。

日本では『きっと、うまくいく(3 idiots)』で親の反対を押し切って写真家の道を歩むあの子としてもっとも知られているかもしれません。

2016年には東京国際映画祭で『ファイナル・ラウンド "Irudhi Suttru"』が公開され、来日もしました。えー、ただの自慢ですがこのときわたくしはツーショットをキメました(嬉)。

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低身長の私に合わせてちょっと屈んでくれて、まとっている香水がクラクラするようないい香り。舞台挨拶後の質疑応答では思慮深く謙虚な人柄が際立っていたなぁ(うっとり)。このころまだ猛烈サラリーマンだったわたくしは激務のあまりヨレヨレの姿ですがそんなことはどうでもよい。

こちらの作品では挫折した元ボクサーという役どころでワイルドな彼が見られます。貧しい女子のエンパワーメントや問題提起という意味でもとても見応えのある作品です。別ブログでレビューしていますのでご興味ある方はぜひ。

若いころから一貫して社会性の強い作品に出演してきたマーダヴァンなので、本作での役どころもピタリとハマります。バナナ売りのおっちゃんを諭したところで話は噛み合わないに決まっているのに、それでも言わずにはいられない。育ちのよいおぼっちゃまぶりと、その少々理想主義的すぎる言動にどこか歯がゆい思いがしながらも、マーダヴァンはかわいい。彼が演じるからこそ、きれいごとがきれいごと以上の説得力を持つ。

プラスチック製品のゴミ問題と、渋滞がひどくどこへ行っても排ガスにまみれるインドの都会の現状。本作の問題提起のひとつです。

日和見警官パティル(パレーシュ・ラワル Paresh Rawal)

政治家との癒着や汚職が横行する警察組織で、流れに逆らわず少々のことには目をつぶり、それでも35年間、自らの職務をまっとうすべく働いてきた警官パティル。ときには「慣行」にのっとって袖の下を受け取ることもあるが、自分なりの矜持もあり、しょっちゅう軽口を叩いては同僚からも好かれている。コンビを組む部下のスニルは熱血で、社会の悪や汚職に楯突いては上官に睨まれたりする。そんなスニルを熟練のソフトな老獪さで守ろうとする人情味もある。

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演じるのはパレーシュ・ラワル。Netflixで見られる『オーマイゴッド 〜神への訴状〜(OMG Oh My God!)』で神に対して裁判を起こす奇天烈な無神論者の男を演じたりと、何かとクセの強い役が多いように記憶しています。

個人的に印象が強いのはサルマン・カーンのスパイものタイガーシリーズ第2弾『Tiger Zinda Hai(タイガーは生きている)』で怪演していた敵か味方か分からぬ男。この作品についても別ブログで語っているので脇道に逸れるのお好きな方はぜひこちらを『伝説のスパイ再来!『Tiger Zinda Hai』@デリー ODEONシネマ』

今回は眼鏡着用で顔の圧がいい具合に隠されているなあと思ったものの、やっぱりところどころ目ヂカラが強すぎる(笑)

インドにおける警官は公務員としての身分が保証されており、また公務員の登用は地方出身者や各階層にも開かれているため、社会的に低層にいる人々に「なんとかがんばって勉学を修め学校を出て安定した公務員になってほしい」と望まれる職業でもあります。

とはいえ一般職の警官の所得は決して多くはなく、足りない分は「自前で」とばかりに日常的な賄賂が容認されていたり、権力者に迎合し事件を揉み消したり、一方では庶民には横暴をふるったりと、清廉潔白だけでは決して語れない職業でもあります(もちろん立派な人物もいると思います)。

日本人旅行者として接してきた限りでは個々には気のいい人が多い印象ですが、ちょっとした違反に賄賂要求をされたりは実際に耳にしますし、ロックダウンで外出したビンボーそうな人を棒で叩いている動画などがツイッターに出回ったこともありましたよね。

終盤、パティルが定年退職の挨拶をする場面があります。地方の農村の文盲の両親のもとに生まれ、なんとか教育を受け、公務員という安定した職業に就いたと。流れに逆らわず、大きな野心も持たず、のらりくらりと36年間、勤めあげてきた男の回想。社会的に認められ、(大金ではないにしろ)安定した収入や退職後の手厚い待遇がある身分を守りたかったのは、家族のためであり彼自身の平穏のため。しみじみ、よいスピーチ。

部下のスニル役にはVijay Maurya。ランヴィール・シン主演の映画『ガリーボーイ(Gully Boy)』でランヴィール演じるスラム青年の叔父役を演じ「ラップ音楽なんて訳のわからないことをせずに身をわきまえて勤めろ」と諭していた俳優です。本作のころは新婚の若手警官という役どころで、パッと見気づかなかったな。

あともうひとりニヤリとしたのが彼らの上官をKamlesh Sawantが演じていたこと。Netflixで視聴可能なサスペンス映画『ビジョン(Drishyam)』で小悪党の警官ガイトンデを演じていて、そのどこまでも憎らしい顔つき(ごめん!)が、今回もみごとにハマり、それなのに最後ちょっと「ええ人」の顔をしたりするのが個人的にクスッと和んだポイントです。

と思ったら、『ビジョン(Drishyam)』は本作のニシカント・カマット(Nishikant Kamat)監督の作品なのですね。脚本のうまさであるとか、静かに人物の心情に迫る撮り方とか、確かに共通しています。

余談中の余談ですが”Kamat”という姓はヒンドゥー教における最上位カーストのブラーマン(バラモン)階級の名前。カーストについて書き始めるとまた長くなるので割愛しますが、そういう出自の監督がこの作品を撮るというのもなかなかに感慨深い思いがします。

うだつの上らない失業男スレーシュ(ケイ・ケイ・メーノーン KK Menon)

ひがな一日、地元の庶民カフェで友人らと時間を潰すスレーシュ。大学は出てそこそこの教育は受けた、コンピューター販売の実績もある、しかしいまは失業中で借金取りからの催促にブチ切れたりもする。明日の食べ物にも困るようなビンボー層ではなく社会的にも決して軽んじられる階層ではないが、弱きには威張り権力にはヘイコラする、そんな立ち位置の人物。敬虔なヒンドゥー教家庭の出身で、なにかといがみ合ってきた歴史の長いイスラーム教徒を毛嫌いしている。

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KKメーノーンといえば、屈折した嫌味な役がハマる役者。私の印象に残る数作、たとえば『Haider』での狡猾な義父役、みんな大好きタイガー・シュロフ主演『Flying Jatt』での極悪ビジネスマン、『ABCD: Any Body Can Dance』での舞踊団のセクハラ経営者などなど、彼が演じるとなると「極上の嫌なやつ」を期待してしまいます(笑)。

今回も鬱屈した失業男。みごとなハマり役。学がないわけではないけれども、ごく狭い世界で限られた視野を持って生きる人物。

役柄としては敵役が多いとはいえ、長身だしいつもピシッとおしゃれで一応イケメン枠だと思うのですけど、ランニングシャツ一枚でフテ寝して天井を見上げるカットなど、うだつの上がらなさっぷりが衝撃的でした。

イスラーム教徒への歪んだ認識、自分の境遇への恨みなど、あれやこれやの鬱憤を顔面に滲ませていた男が終盤に見せる表情。それまで自分が信じてきた価値観が崩れていくことへの心許なさ。

半生を「こうだ」と思ってきたものを変えることは自らを否定することでもある。その葛藤する表情はとても切なく、そしてその心情の変化に希望も感じられる。言葉ではなく顔でいかんなく見せるあたり、やっぱりこの人うまいなあと唸ります。

路上コーヒー屋トマス(イルファン・カーン Irrfan Khan)

自転車で南インドのコーヒーを売り歩くおっちゃんトマス。数十円単位の零細な商いをしている見るからにビンボーそうな男。夢の街の片隅で、誰からも敬意を払われずにひっそりと生きている。妻とは南インドのタミル語で話しており、また警官からも「マドラス(南インドの街、現チェンナイ)に帰すぞ!」と脅されるなど、家族で都会に出稼ぎに来ている設定が分かる。ムンバイにはアジア最大といわれるスラム・ダーラーヴィーがあり、地方出身者が出身地域や宗教ごとにコミュニティを形成している。はっきりそことは描かれていないが、家の作りはダーラーヴィー住まいであるように見える。妻は富裕層の家庭で通いでお掃除をしていて、貧しいながらも夫婦で力を合わせて幼い娘を育て暮らしている。

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Thomasという名前や家の中にキリスト像の絵があることなどから、彼はキリスト教徒だと分かります。身分の低いヒンドゥー教徒が、社会的地位の向上を求めて階級のないキリスト教や仏教へ集団改宗することがあり、彼もそんな改宗クリスチャンという人物像です(説明はないけれどインド人なら分かる)。

演じるイルファンは、昨年闘病の末53歳という若さで旅立った、私がもっとも好きな俳優のひとり。『Gunday(ならず者)』でのクセのある刑事、『ヒンディー・ミディアム』での下町の成金男。ピシッとしながらもどこかすっトボケた、決してハンサムではないのにキメるときはキメる、その緩急が絶妙に愛おしい役者さん。

本作では庶民のトレードマークともいえるペラペラの手拭いを首に巻き、ベコベコの自転車にまたがり、おっかない警官にドヤされては子どものおしおきのような罰をやらされたりしています。そんなことは日常茶飯事なのか、トマスはそれほど表情も変えずおとなしく従うのがまた切ないところ。

お金持ちの奥さんを尾行したりとストーカー的な行動もするトマス。確かにそこに存在しコーヒー屋の客として接する人もいるのに、雑多な街の風景のなかでは空気のようにスルーされ見過ごされる存在でもあり、誰も彼の行動には気づかない。

そのトマスがテロ予告の愉快犯になり、まるで天下をとったような得意げな表情で意気揚々と街を闊歩する。誰も彼に注目しない、つまり疑わないからこそできる、ちょっとした「悪事」。

しかしその悪事は大騒ぎを引き起こし、パニックのなかひとりの老人が心臓発作を起こします。自分のせいで人を死なせるかもしれない事態になり、トマスは自分の働いた「悪事」に気づき、質素な家でうずくまって慟哭します。

驚いて背中をさすり抱きしめる妻。故郷を離れ一族を離れ、親しく付き合う友人もなく、妻と娘とのささやかな世界で生きている男。きっとこの妻はしっかり者の働き者で、貧しいながらも幸せな家庭なんだろうなと少し救われる思いがするシーン。

そうそう、『ヒンディー・ミディアム』はインドにおける英語の位置づけや教育の現状をとてもリアルにコミカルに描いたおすすめ作でもあります。「映画『ヒンディー・ミディアム』 現代インドのリアルすぎるリアル」にてまたまた私の極私的な視点からあれこれ書いているのでこちらも合わせてどうぞ。最初に紹介したテレビレポーター役のソーハーの兄のサイフの最初の妻アムリタ・シンも出てます。アムリタ・シンはKKメーノーンが極悪ビジネスマンを演じたとご紹介した『Flying Jatt』にも出てたな、あとトマスの妻役のDivya Jagdaleは『Hum Dil De Chuke Sanam(ミモラ 心のままに)』でアジャイ・デーヴガンの妹を演じていた人で久しぶりに見たわとか、ああもう話が収拾つかなーい!(笑)

インドの「階級」とは

さてここまであっちこっちに話が逸れながら、5人の登場人物の人物像を書いてきました。さまざまなバックグラウンドを持った人たちが同じムンバイという街に暮らしていることが分かるかと思います。

インドが階級社会なのは間違いありません。ただその階級は必ずしも、インドといえばの身分制度「(ヒンドゥー教の)カースト制度」に準じているわけではなく、ヒンドゥー教以外の宗教も大いに関係しますし、資産の規模、教育レベル、出身地、出身一族、さまざまな要素が絡みます。

ひと口に富裕層といっても歴史ある一族から一代で財を成した層もいますし、貧困層も同じく、今日食べるものにも困る人もいれば、現金収入がなくあまり将来的な展望はないが、食うにはそれほど困らぬという人もいます。

大きな傾向として言えるかなと思うのは、これらの人たちは互いに交わらぬということです。街ですれ違うとか、主従の関係でつながるとか、そういうことはありますが、基本的にそれぞれ違う世界を生きています。

住むエリア、買い物をする場所、毎日の移動手段、家族で食事をするレストラン。一流企業で働くホワイトカラーはどんなに渋滞して何倍も時間がかかろうとも車で移動しますし、チャイ屋のオッチャンが仮に大金を手にしたとしても高級レストランで食事することはおそらくありえないことです。

それぞれが自分たちの身の丈に応じた生活圏を保っていて、あらゆる生活インフラにダブル、トリプルスタンダードがあるというのがインド社会なのかなと思います。

私とインドの関わり

最初はバックパッカーとして、いまは主に旅行業の分野で、インドと関わって2021年で24年になりました。

その間、私が関わってきたインドの人たちはほんとうに千差万別。そしてちょっとびっくりするのですが、これまで紹介してきた登場人物と同じ属性の知り合いのひとりやふたりが容易に頭に浮かぶのです。

証券会社時代の仕事相手や同僚としては、ルパリやニティルのような人たち。この人たちは目線がグローバルに向いていて、実際に海外経験もあります。カルチャーの違いをあまり意識せずに同じテーブルで話ができるというか、友人としてあまり身構えずに付き合える相手でもあります。最新のiPhoneや海外旅行の話もできるし、恋愛や家族のことも話す。ただ、同じ感覚で話していたら実は桁違いのお金持ちだった……ということもあります(そして私のほうから急に心理的な距離ができる(笑))

旅行中に知り合って顔見知り、そこそこ仲良くいられるのはスレーシュのような人たち。旅行会社時代の友人もこの層に近いところから這い上がってきた人が多いです。

インドの大学はUniversityという総合大学(最高レベルの名門も多い)と、College(コレッジと発音)と呼ばれる専門学校に近いような教育機関があります。

私のごく親しい友人たちは国立のUniversityで専門の学問を修め、外国人慣れもしていて目線はグローバル。実際に外国に行ったことがある人はあまり多くはありませんが、外国に出てもうまく馴染めるだけの教養や知識があり、最初出会ったころは雇われスタッフだったのが、いまでは地元の政治家になったり経営者になったりとしっかりした基盤を築いています。

この作品におけるスレーシュは、Collegeでビジネスなどを学んだ、高等教育は受け、知識として外の世界のことを知ってはいるが、実生活の目線はあくまでも自分たちのコミュニティに向いているという感じの人かなと思いました。私が接することが多い現地旅行代理店のスタッフや観光ガイドはこういうタイプが多いです。

ひとり旅の途中、しょっちゅうやりとりしていたのはトマスのような路上で商いをしている人たち、そしてパティルのような警官や役人。あまり深いやりとりはないけれど、友人の家のメイドさんや通いのお掃除の人も何人も顔が浮かびます。

自分の属する層の外の付き合いはないのが一般的な社会構造と書きましたが、日本人であり完全によそ者の私は、交わろうと思えばどこの世界にも片足を突っ込むことができます。付き合い方は同じではないけれど、お金持ちとも遊べるしチャイ屋のオッチャンとも仲よくなれる。インドに住んでいたりインド人の配偶者がいたりすると難しいように思うので、なんというか、こういう立ち位置はありがたい。

連鎖する「Sir」

本作で印象的だったシーンのひとつ。

深夜、路上で安酒をあおりながら、通りすがりのイスラーム教徒のおじいさんに言いがかりをつけるスレーシュ。おじいさんはスレーシュのことを「Sir」と呼びます。これは英語の敬称Sirで、インドの場合は単なる丁寧語の要素以上に、使用人や序列が下の人が上の人に向かってへりくだる側面が強いように思います。「へいダンナ」的な。

そこに通りかかった警官のパティルとスニルに対し、悪酔いしておじいさんに絡んでいることを咎められ分が悪くなったスレーシュが、今度はふたりを「Sir」と呼ぶ。

自分より弱い者に対して威張り散らす、その相手もまた「以下の者」に対して横暴を振るう。この「威張り」の連鎖はリアルでも目にすることが多くて、見ていてとても辛い。

終盤、また深夜に再会したパティルとスレーシュは、警察車両のなかである話をします。そのとき、前回は「Sir」と呼ばれていた警官パティルが、今度はスレーシュのことを「Sir」と呼ぶんですね。

イスラーム教とヒンドゥー教の諍いについて淡々と話すパティル。「イスラーム教徒がヒンドゥー教徒を殴ればまたその応酬があり、諍いは終わることがない。では貴方ならどうするか?」と問うパティルに、返事ができないスレーシュ。

相手を尊重することで自分も尊重される。そんな意味を込めての「Sir」という呼びかけで、ヘイコラするための「Sir」をずっと聞いてきた私にはとてもグッとくるシーンでした。

名前で属性が分かる社会

本作のカマット監督についてブラーマン階級の姓であると前述しました。

インド社会では名前でその人の属性が分かることがとても多いです。ヒンドゥー教徒の場合、姓で階級や出身地方がある程度分かりますし、それ以外の宗教についてもほぼ名前で分かります。「シン」さんはシーク教徒だなとか(実はラジャスタンにもシン姓はあるけど)、「カーン」さんはイスラーム教徒だなとか。姓だけでなくファーストネームでもある程度分かる場合もあります。

スレーシュが「テロリストだ」と妄想した青年ユスフの家を探し当て、友人と偽って上がり込んだシーン。最後にお母さんから名前を聞かれたスレーシュは、咄嗟にイスラームの偽名を口にします。が、その後駆け込んできた別の友人に「スレーシュ」と呼ばれて嘘がバレてしまう。

その瞬間、それまで親しみがこもっていたお母さんの顔がパッと警戒心に満ちた顔に変わる。その顔を見て、自分の嘘になにかしらの痛みを感じるスレーシュ。

このやりとりの意味は、字幕があったとしても、宗教、特にイスラーム教に馴染みがない日本人にはちょっと気づきにくいかと思うのですが、インド社会で「名前」の持つ意味がかなり大きいことがわかります。

欧米社会でもありますよね、クリスチャンネームとかユダヤ系の名前とか。イギリスだと「ポール」はちょっと坊ちゃんっぽい名前だなとか。日本でもそこそこあると思うのですが、インドほど名前で出自が明らかにはならない気がします。

そんな私は、単純にどの文化圏のどの言語の人からも呼びやすい名前にしようと付けた娘の名前が、アラビア語由来のイスラーム名と同じ音だとあとから分かり、どこまでもインドに繋がっているのだなと我ながら感心しました(笑)

インドのイスラーム教

インドはヒンドゥー教の国と思われがちですが、世界のほとんどすべての宗教が集まっていると言われるくらい、多宗教の国でもあります。

特にイスラーム教に関しては、歴史上イスラーム勢力が広大なエリアを支配していた時期があり、文化面でもイスラームの影響なしには語れません。

現在は数として圧倒的に多数なのはヒンドゥー教徒ではあれど、イスラーム教徒も1割強。13億の1割強ですから日本の人口よりも多くのイスラーム教徒がいることになります。

宗教への帰依の深さはどの宗教にしても個人差があり、ひと括りには言えないのは文化面、生活面での多様性と同様。ただ私の個人的な印象では、中東と比べるとインドのイスラーム教徒は戒律についてはややゆるめの意識の人が多いように感じます。

もちろん急進派と呼ばれる人たちもいるし、話が対ヒンドゥー教に及べば1947年のイギリスからの独立の際には国を分かつ激しい争いがあったし、それが元となりその後何度もひどい争いが起きています。それでも個々の友人たちを思うと、ヒンドゥー教とイスラーム教で心から憎み合っている人たちはそれほどいません(いなくはないのが辛いところ)。

本作でも、スレーシュがテロリストではないかと疑うユスフが、終盤、「サイババの寺院でいい話を聞いて感銘を受けた」とお札(ふだ)をスレーシュに渡す場面がありました。イスラーム教はアッラー以外の神を認めない一神教のはず、でもサイババは神ではなく聖人だからいいのかな、いやでも聖人とはいえヒンドゥー系の人だよな、など思いを巡らせました。

そのあたりの感覚は私にはいまいち分からないのですが、これだけ多様性に満ちた国に生きるということは、よいと思うものは素直に取り入れていいということなのかなと予想しています。

スレーシュ行きつけの庶民カフェの店主もイスラーム教徒で、借金取りからの催促に気が立ったスレーシュに「まあ、チャイでも飲めや」と声をかけたり温かい。

ごく個人の体験ベースでは、バックパッカーとしてビンボー旅行をしていたころ、困ったときに損得抜きに助けてくれたのはイスラームのお兄ちゃん、オジサンたちが多かったように思います。あ、サルダール・ジー(ターバンのシーク教徒のオジサマの敬称)もキップがよく親切な人が多かったな。

インド女性と私の立ち位置

イスラームに限らず、これまで旅行者として関わってきたインド世界では、女性が表立って外国人と接触するのは稀でした。仕事上の付き合い以外の女性の知り合いは、ほとんどが友人の家族なのが少々残念なところです。そういえばインド女子の友だち少ないな、いまさら気づいたけど。私の世代(40代半ば)のインド女子はやはり、家に引っ込んで夫の後ろに控えている人が多いです。独立心豊かで本音で語り合えるという感じではない。

私が友人たちを介して見てきたインドは、コミュニティ外の外国人の、「名誉インド男子」としてのものであり、これもまたとても限定的な一面にすぎないことは、書いておかねばならないでしょう。

悪を倒すために世界をぶっ壊す

列車テロに遭遇してから数日後、失業男スレーシュが自宅でクサっているとき、隣室で老人(父親か祖父)が、近所の少年に静かに話をしています。

「マハーバーラタ(インドの長大な叙事詩)のなかのクルクシェートラの戦いのくだりを知っているか。世の中に堕落と悪がはびこったとき、ヴィシュヌ神はアルジュナに『正義のためにためらうことなく戦うべき』という教えを授けている。世界は破壊され、また作り直されるのだ」

(専門家ではないのでざっくりと述べます)ヒンドゥー教の世界観には、こういった「破壊と再生」があることは、数々の神話のエピソードからもうかがえます。シヴァ神はぶっ壊してはまた作る、ヴィシュヌ神は世界の破滅の危機のたびに姿を変えて救世主として現れる。人々がテロの恐怖に震え上がっているという状況で、そういった世界観が持ち出されるのは、はたして戒めなのか、希望なのか。

2021年5月現在、世界中を震え上がらせているのは例のウイルス。これも同じように捉える人はきっといることでしょう。このシーンの真の意味は私にはよく分かりません。

私の爆破予告体験

ショッピングモールでの爆破予告は実際にあり、そして残念ながら大小の爆破テロも数年おきにおきています(美穂さん注: この数年はテロ発生は落ち着いているとのこと)。そのため公共施設や商業施設での警戒レベルは常に高く、映画館やショッピングモール、メトロや列車の駅などで必ずボディチェックと手荷物検査があります。

2015年12月末、デリーの高級ショッピングモールのシネコンで映画『Tamasha』を鑑賞した深夜0時すぎ。

映画館を出たら、ショッピングモール内が騒然としています。スタッフが「すぐに外に出て」と連呼するなか、人々が足早に出口に向かっています。館内放送でもなにかアナウンス。

私はヒンディー語はあまりできないので、単語の切れ端を聞き取るのみ。「爆破予告」という言葉を聞いて、青ざめました。深夜にひとり。パスポートはホテルにおいてきた。もし私の身になにかあっても誰も消息が分からないし、身元の判明も困難。もう娘に会えないのか。いや、そんなことがあってたまるか。

エレベーターを駆け降りながら、ドライバーに電話。「すぐ来て。いますぐ来て!」

深夜の外出だったので往復の車を手配してあり、大型モールの立体駐車場は閉店間際の退出に時間がかかるのと経費節約のため、駐車場ではなく外を流しておおよその終了時間に近隣に待機してくれるようドライバーに頼んであったのです。

外に出たらズラリと並ぶ数十台の警察車両。何十名もの警官なのか軍人なのか分からないけどゴツい人たちが銃をかまえて待機している。テレビカメラ。レポーター。たかれるフラッシュ。

とにかく、すぐこの場を立ち去らねば! 爆破も嫌ですが、もたもたしていて何かを疑われ身柄を拘束でもされたらたまったものではありません。

モールの前のハイウェイでドライバーと合流。このときのドライバーは地方出身者で、人はいいけれどちょっと鈍臭いタイプ。ものものしい警備を見て私と同じように青ざめ、文字通り一目散という感じで出発。

すぐそばをインド軍のSWAT(特殊部隊)車両が連なって通っていきます。とにかくです、私は自分の逃げ足の速さだけは褒めてやりたいと思います。無事ホテルに到着、ドライバーには多めに支払って、やれやれと眠りにつきました。せっかく観た映画の内容、すべて吹っ飛んだ。

翌朝、ホテルの朝食のビュッフェ。寝ぼけまなこでコーヒーをすすりながら、ぼんやりとニュースを眺めていたら。

「Vasant KunjiのDLF PromenadeおよびAmbience Mallで行われた避難訓練の模様をお伝えします」

とレポーターの映像が流れます。そこはまさに昨夜わたくしがいた場所でございます。

避難訓練だったんかい。

まあ、訓練するに越したことはありません。それはほんとう。思い出してみれば退避する皆さんもそこまでパニックという感じではありませんでした。

笑い話ではないのですが笑うしかない。それにしても、英語のアナウンスも流してほしかったなァ。

ノブレス・オブリージュ

さてここまでインドの多様性を私の個人的なエピソードとともに書いてきました。一番トップの富裕層と、一番下の本気の最貧民層は、おそらく関わったことがありません。

ただ、数々のメディアや映画や書籍を通じて、インドにはノブレス・オブリージュを発揮する上流階級がいることは確信しています。

富裕層にもさまざまあって、自分たちの利益しか考えない新興成金のような人たちもいれば、教養と歴史を背景に真剣に国を憂い、貧しき人々を助けようとしている人たちもいます。

映画に描かれたなかで印象的だったのは、2016年にSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で上映された『ニュークラスメイト(Nil Battey Sannata)』。娘の未来のために奮起するシングルマザーに思い切った決断をさせたのは、雇い主の上流婦人でした。

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当時のレビューを下記に記しているのでよろしかったらご一読下さい。作品自体を日本で観られる媒体は現在ありません。残念!

『ニュー・クラスメイト "Nil Battey Sannata"』@SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016 Vol.1

『ニュー・クラスメイト"Nil Battey Sannata"』@SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016 Vol.2

あちらとこちらを隔てる壁

2016年に前職を退職してからの数年、2か月と空けずにインドへの渡航を繰り返してきました。ツアーにしろ商談にしろ視察にしろ、娘をおいての出張なのでいつも数日という短期間に予定を詰め込んだ慌ただしい日程です。

最終日、デリー発の夜行便に乗り込むとだいたいいつもぐったりとシートに埋もれます。あまり眠れないままに、7〜8時間もすれば成田空港へ到着。そして降り立った日本で、自分が前の晩までいたインドとの差に毎回、愕然とします。

快適とか不便とかそういう単純なものではなく、見える景色まとわりつく空気すべての違い。私はこんなに簡単に行き来しているけれど、インドの多くの人にとっても、日本の一般的な人にとっても、互いになんと遠い国だろうと。

私は我がアンジャリツアーのお客様たちが大好きです。ほとんどの皆さまがインド映画ファンで、「あんなすごい映画を作るインドはもちろんすごい国に違いない!」というリスペクトを持って、色眼鏡なくインドという国に入っていってくださるから。

人の心は、真面目な道徳の授業では劇的には動かない。ごく個人的な目の前の人との関わりでしか変わらない、この『Mumbai Meri Jaan』を観て、改めてそんな風に思います。

机上の解説ではピンと来ない、だから皆さんインド行きましょう、そのときはぜひアンジャリツアーで。やった、綺麗に着地できた(笑)

Bombai Mari Jaan

さてこの『Mumbai Meri Jaan』という作品でエンディングに流れる曲『Yeh Hai Bombay Meri Jaan(これが我が愛しのボンベイ)』。1956年のグル・ダット監督(好きな監督です!)の『C.I.D.』という作品の挿入歌だそうです。

残念ながら私は未見なのですが、この歌の歌詞を下記に紹介します。

「ボンベイでの暮らしは大変だ」と嘆く男に、女性が「そんなことはないわ」と返す。1956年の映画に描かれているボンベイと、50年後の2008年の映画のムンバイ。生き馬の目を抜く大都会は、少しずつ変わり、希望を繋いでいると、思いたい。

Ae dil hai mushkil jeena yahan
おお我が心よ ここでの暮らしは困難だ
Zara hatke zara bachke yeh hai Bombay meri jaan
脇によけて 気をつけて なぜならここはボンベイだから 愛しの君よ
Kahin building, kahin traame, kahin motor, kahin mill
ビルやトラム 車や工場
Milta hai yahan sab kuch ik milta nahi dil
ここにはなんでもある ただひとつないのは心
Insaan ka nahi kahin naam-o-nishaan
慈悲の心 その欠片もない
Kahin satta, kahin patta, kahin chori, kahin race
博打や盗みや競争が溢れ
Kahin daaka, kahin phaanka, kahin thokar, kahin thes
強奪や侮辱 問題だらけ
Bekaaro ke hai kayi kaam yahan
望みのない人々があらゆる商売をしている
Beghar ko awaara yahan kehte hans hans
家なき人々はここでは笑顔を浮かべた放浪者といわれる
Khud kaate gale sabke kahe isko business
他人の喉を切り裂く人がいて それがビジネスと呼ばれる
Ik cheez ke hai kayi naam yahan
ひとつの真実にここでは複数の呼び名がある
Bura duniya ko hai kehta aisa bhola tu na ban
あなたは世間を知らないわ この世は邪悪ではありません
Joh hai karta woh hai bharta hai yahan ka yeh chalan
行いには報いがあるものよ それがこのゲームの名前
Dadagiri nahi chalne ki yahan
横暴がまかりとおりません
Yeh hai Bombay, yeh hai Bombay, yeh hai Bombay meri jaan
そう これがボンベイなのよ 愛しいあなた
Ae dil hai aasaan jeena yahan
おお我が心よ ここでの暮らしは楽なもの
Suno mister suno bandhu yeh hai Bombay meri jaan
ミスターお聞き これがボンベイなの 愛しいあなた

また話が激しく飛びますが、1961年のアメリカ映画『ウエスト・サイド物語(West Side Story)』の『America』でプエルトリコ移民の女たちが「アメリカはいい、大好き」というのに対し、男たちが「こんなひどいところはない」と嘆くシーンを思い出しました。

参考資料

この作品を教えて下さった坂田マルハン美穂さん主宰のNGO Muse CreationのYoutubeチャンネルにインドを知るための各種セミナーがあるのでリンクを貼っておきます。

ジャーナリストで旅行作家の丸山ゴンザレスさんとの対談で、旅行者目線のインドについて触れています。

ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』の佐々木美佳監督とのYoutube対談では、なぜここまでインドに惹かれたのかのよもやま話をしています。よろしかったらご覧ください(音声がちょっと聞きづらい)。

ふう。長かった。ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございます。



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