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『グレート・インディアン・キッチン』を観てきました

キッチンは聖域で、料理は祈り。

そんな風に私は思っている。19歳でひとり暮らしを始め、初めて自分のキッチンを持ったときは誇らしかった。道具をすこしずつ買い集め、友人を招いては料理を振る舞った。20代はほとんど旅暮らしで、世界のあちこちを移動したり、一定期間暮らしたりした。そのたびに、ちょっと分不相応なほどのかさばる調理器具をもって、えっちらおっちら移動した。

30代半ばで家庭をもったときはフルタイムで働いていた。そんな余裕はどこからどうみてもないのに、身重の自分のために、まだ壊れそうに小さかった我が子のために、異国の過酷な現場で疲労しきって帰ってくる元配偶者のために、毎日の睡眠時間が3時間になろうと、やれオーガニックだ、やれスローフードだと、手作りでバランスのよい食事を用意することに血道をあげた。

家事そのものはあまり得意ではない。掃除も洗濯もできればやりたくない。それでも、「そんな贅沢」が許されるならば、愛する人たちのために家を磨き、万事整え、温かく美味しい食事をいつも用意していたいと、いまも思っている。

そんな贅沢。

そう言えるのは、まがりなりにも高等教育を受けられたバックグラウンドが私にあり、職業を持ち高給を稼ぎ、まるで大きな息子のようだった元配偶者のいる家庭で、大威張りで生きていたからだ。いいときも悪いときも選択権はいつも自分の手の中にあり、私は私の納得のいく半生を歩んできた。

昔から、そして50歳に手が届こうといういまも、私はかわいい奥さんになりたい。

愛する人のために、丁寧に料理をし、バランスを考えたお弁当を持たせ、シャツにはパリッとアイロンをかけたいし、なんなら靴下だって毎朝履かせてあげたいくらい。外で仕事などせず、家庭や夫をマネージする完璧なプロ主婦でいたいし、そういう能力は十分にあると思っている。

来月の生活費を、娘の学費を、老いていく自分の健康や美容の経費を、心配しなくていいなら、ね。

現実は、一家の大黒柱として髪振り乱して家でも会社でも24時間働けますかというモーレツかあちゃんだった。とにもかくにも私は外で稼いでくる人で、同時に家をマネージする人でもあった。そしてそれができたのは、元配偶者にそれだけの価値を見出し、問題はありつつも、尊敬していたから。つまらない男に尽くしていたとは思っていない。

長い前置きになりました。

インド・ケーララ州のマラヤーラム語映画『グレート・インディアン・キッチン』をようやく観ることができました。

ケーララ州といえばインド大陸の西の玄関口。古くから外に開かれた港があり、近年は中東への出稼ぎで持ち帰ったオイルマネーで、インドでももっともインフラが整い、教育レベルが高い州として知られています。

以下、盛大にネタバレしますのでご注意下さい。

キッチンを牢獄たらしめるものとは

男どものために女性が家事を押し付けられ家に閉じ込められ、穢れとして扱われる。ほんと、ひどいことです。

私は幸いそういう家庭に育ってはいないけれど、遠縁の親族の集まりで、男どもがデンと座って飲み食いし散らかし、奥さんたちがせっせと御用聞きをしているのを見たことや、この令和の時代に「主婦は気楽でいいよな」とか「女の子の仕事は責任がなくて羨ましい」とのたまう男性たちと接することもあります。ウンザリです。

作中のモウロクジジイの台詞にもありますが、この新妻のしていることはどんな政治家にもできない偉大な仕事だと思います。やってみれば分かるように、そこに暮らしがある限り、家事には終わりがありません。暮らしをつつがなく運営するために、毎日毎日変わり映えのしないルーティンが繰り返されるだけで、家事とは退屈で、(そんなこたぁ断じてねえわと私は思うが)瑣末な、つまらない、やらなければならないからやるだけのものだと感じる人がいるのも理解できないことはありません。

だがしかし。

もし家事をこなし主婦として家庭に生きることがその女性の望むことであるならば。そして彼女の存在にひとりの人間としての敬意が向けられ、誇りを持って生きているのであれば。

キッチンは聖域であり、料理は祈り。

家庭という「チーム」をマネージするためのもっとも重要な場所がキッチンであり、そこを取り仕切る主婦は夫の表舞台を支えるパートナーではありますまいか。なによりルーティンにはルーティンの美しさや創造性があり、極めることができた様式があれば、そこに幸せを感じることも、私はあります。

私のインドの友人のお母さんは、家族の体調に合わせて薬としてスパイスを使う、それは見事な家庭料理を毎日作り続けています。どこのレストランの料理よりも私は彼女がつくりだす一見地味な、しかし途方もない知恵と労力の結晶であるお料理たちを愛しているし、彼女の家族も同じことをいいます。そして彼女自身、家事や、とりわけ料理の能力にたいへんな自信と誇りを持っており、聖域であるキッチンはいつもぴかぴかに磨き上げられています。

彼女にとってキッチンは断じて牢獄などではない(と思いたい)。

日本の片隅のバリキャリは

インドでは、ある程度の経済力のある家庭にはお手伝いさんがいることが多いです。富裕層になると家の中に何人もの使用人がいて、奥さんは料理などしないし、子どもたちも片付けなんて自分ではしない。たまに料理などすることがあっても、それは生活のためというよりはレジャーであり、下拵えや後片付けはお手伝いさん任せ。まさにこの映画に出てくるブラックティー野郎のよう。

インド富裕層の来日のアテンドの仕事を定期的にしていまして、いつも思うのが、彼らは性別に関係なく生活能力というものに欠けているということです。人を使って用を済ませることが当たり前の人生を送ってきた人たちです。食事の注文はやたら細かくてうるさいし、ホテルの部屋はいつも尋常でない散らかり放題(もちろんそうでない富裕層もいます、一例です)。

ただ悔しいかな、そうやってナチュラルに人に命令して生活面の煩わしいルーティンをまったくしない世界で生きている人たちが、ビジネスであったり芸術であったり、自分の能力を最大限に発揮してのびのびと素晴らしい仕事を成し得ていることがあるのも事実。

私の前職の外資系証券会社には、インド支社の同じチームに女性の同僚がいました。同年代で同じ役職の彼女には仕事面で感嘆することが多く、母親としても余裕を持って子どもに接しているのを見て大変羨ましく感じていたものです。

彼女いわく、家には通いのお手伝いさんがいて、家事一切を任せて自分は仕事と夫婦の時間と子どもたちの情操教育にフォーカスしている。貴女はなにもかも自分でやっていて、いつも時間に追われて大変そうだ。日本の女性って自由がないのね。

この作品の新妻とはまったく違う立場と理由で、雇おうと思えば家事代行くらい雇える経済力がありながら、なにか妄執ともいえるような想いで当時の私はキッチンに立っていたように思います。自分は家でも会社でも活躍している、有能な仕事人であり妻であり母である。好きでやっている。そう思っていたけれど、ある日、心身が壊れた。家族の健やかな毎日への祈りのはずが、自らを縛りつける呪いになった。

あれは牢獄では、なかったか。

生活力は人間力

当たり前のことですが、人はひとりでは生きられません。精神的な意味でも、物質的な面でも、生活や人生のさまざまな局面においても。

インドで掃除などの「穢れ」を扱う職業の人は、一般的に、不可触民と呼ばれる階層や、そうではなくても社会的に地位のある人たちではありません。作中で雇われているお手伝いさんの女性も、おそらくそういうバックグランドを持った人物として描かれていると思います。

その彼女が、旧家に嫁ぎ身分としては高いはずの新妻よりもずっと力強く誇りを持っていたのがとても印象的でした。子どもを学校に行かせるために働いているという彼女は、理不尽な社会構造のなかでも持てる能力を存分に発揮して、したたかに生きているように見えました。

現在シングルペアレントとして、家計を担い、母親でありときに父親的にもなり、ひとり何役もやっている私は、ときどき「メイドやお料理レディを安く雇える国にいって働いてはどうか」と頭によぎることがあります。かつてのインドの同僚のように家事一切とまではいかなくても、せめて週に何度か家のメンテナンスをしてくれる人をお願いできたら、もっと仕事に集中できるし、親としての責務を果たせるのではないだろうか。

いつかどこかのタイミングでそんな転機が訪れるかもしれません。ただそれでもなお、適宜アウトソースするにしろ、基本的に自分の身の回りのことは自分でできる、そういう人間でありたいし、娘にもそうあってほしいと思っています。

なぜなら、自分でやり、その重要さや大変さを理解していないと、こと家の中の仕事で他人がしてくれることを「瑣末でつまらない仕事」と思ってしまいがちだからです。

テーブルの上が汚れきっていても、お皿に汚らしく食事を残しても、なんの思いも湧かないし気にもとめない。そういう人は、作中の男どもだけではなく、そしてインドだけではなく、性別や国や地域に関係なく、います。家柄も年収も吹き飛ぶほど、お育ちが、悪い。

娘の学校の用事でママ友たちとファミレスで会合をする。食べ終わったお皿を重ねゴミをまとめて下げやすいようにテーブルの端におく。三つ星レストランでやったらビンボーくさいでしょう、でもファミレスです。そんなことを誰に言われるでもなくよきママアピールのためでもなく連携プレーでごく自然にやっているのは、素晴らしくは、ないですか。

どんなに輝かしい経歴があったとしても、セレブリティであったとしても、誰かの働きがあるからこそ自分は自分の本分を発揮できていることに想像力が働かない人には、人としての魅力がないと思うのです。日々やるかどうかは別として、男も女もなく、掃除洗濯炊事、それくらい軽々と当たり前にこなせるのが大人の標準スペックであってほしい。

来日アテンドしたインド富裕層に感じたのは、ちょっとなにかするにも自分でできないなんて不便極まりなくない? ということ。ホテルの朝食が気に入らないがどうしたらいいか分からないと深夜に連絡を受けたときは、早朝、なんとか妥協案のシリアルを届けました。日本ほどの「先進国」のホテルにオーガニック食材の菜食料理がないのは、それは確かに残念なことかもしれませんが、異国に無防備にやってきたのだから、あるもの食べろ。近くのコンビニを物色することさえできないなんて、憚りながら、お育ちが悪うございます、奥様旦那様、お嬢様おぼっちゃま。

Manners make the man.(礼節が紳士をつくる)

映画『キングスマン』でもコリン・ファースがサヴィル・ロウのお仕立てスーツでビシッと身を固めて言ってます。お生まれがよくてもですね、出されたものに不満しか出てこないのは、お行儀が、悪い。

作中にももっと対等な関係を築いている友人夫妻が出てきましたが、これは現実でもそうです。くだんの富裕層ファミリーの親族のアテンドをしたときは、拍子抜けするほど手がかからずなんでもテキパキ自分たちで調べて動いていました。多様性の国です。

踊りと誇り

最後のダンス、よかったです。ケーララ州の古典舞踊であるモヒニアッタムの要素を取り入れたコンテンポラリーダンスとでもいったらいいのかな。

モヒニアッタムは優美な女性の踊りで、ほかの古典舞踊と比べるとゆったりとした動きが多く、また乙女の恋のモチーフを演じることも多い舞踊だという印象があります。

そんなモヒニアッタムの伝統的なヘアスタイル(の名残)やステップをチラ見せしながらも、力強く大地を踏み、飛び、跳ね、10本の手を持つ女神カーリーの姿を見せたりと、この映画をずっと覆っていた閉塞感をポジティブなパワーで吹き飛ばす、素晴らしい踊りだと思いました。

ちなみに女神カーリーはシヴァ神の妻パールヴァディの化身で、瞑想中のシヴァの代わりに悪魔をバッタバッタとやっつけていく女神。勢いづいて殺戮が止まらなくなったとき、夫であるシヴァが身を捧げて踏みつけられ、踏みつけているのが他ならぬ自分の夫だと気づいてハタと我に帰るのです、カーリーは。現状打開と変革の象徴、そして最後にはよき妻に戻るこの女神を踊りの中で表現したのはとても意味深いと思いました(あれはカーリーだと思うのだけど、違っていたらゴメンナサイ。10本の腕と憤怒の表情と黒い衣装からそう判断しました)。

祭礼を男衆が担うという伝統にはよそ者の私のあずかり知らぬ起源や由来があるのだと思いますが、たまのお勤めで神を崇め讃えるより以前に、家の中の生きている女神に敬意を払わずして家内安全商売繁盛はないでしょうよ。これは世界共通ではないかしら。アイヤッパンへの巡礼をする男たちに対して彼女はカーリーで返した、そういう解釈もできるのかな、たぶん。

余談ですが、古典舞踊の世界も、理不尽なしきたりや、(本来は尊いものであるべき)師弟制度の、ときにがんじがらめのしがらみがうごめく世界です。伝統的なモヒニアッタムを継承している踊り手からしたらこのダンスはかなり斬新だったと思います。本来は純白の生地に金の縁取りをした衣装で、たおやかに美しく踊られる乙女の舞踊ですのでね。正統派を継承している踊り手のなかには怒る人もいるのではないかな、そのくらい大胆なアレンジだったと思います。

生徒たちに拍手を送る「元・新妻」の自信に満ちた表情ときたら! 彼女は伝統を敬いつつ、新しい価値観を自ら生み出し、尊厳を取り戻したのだ。決して伝統的な料理やその手間を軽んじているわけではなく、結婚を疎んじているわけでもなく、欲しかったのは、ひとりの人間として尊厳を奪われずに生きること。そんなメッセージのラストだと思いました。開かれ、自由であるという空気が欧米テイストではなくきちんと自分のルーツの上にあることが、これまた絶妙に爽快です。

この映画が伝えたい、より深い闇は、これを観て「いやひどい女性蔑視だね、許されることではないよね。俺は家事も手伝ってるしイクメンだし」とまったくの他人事としてしたり顔で語りそうなメンズが世界津々浦々にいそうだなというあたりかもしれません。新しい妻を迎えて「過ちがあった」などと微笑む、あの夫。カップくらい自分で洗えや。

あ、私は引き続きかわいい奥さん(=有能なプロ主婦)を目指していますので、一生尽くして後悔のないすてきな殿方からの「我こそは」というお声がけ、お待ちしております。

貴方が王なら、私は女王。ごきげんよう。




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