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やがてマサラ #6 ロゴスの使徒

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

自由な気風の高校へ

高校進学の翌年の祖父の年賀状には昭和天皇崩御が描かれていました。傍らで振り返り昭和天皇とともに去ろうとしているのは南方で戦死した祖父の弟。戦前は松竹歌劇団のタップダンサーだったそうです。

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広い世界に出たい。そんな思いで進学したのは、いまはもう統廃合でなくなってしまった、横浜にある神奈川県立外語短期大学附属高校という学校でした。

公立ながらも語学教育に力を入れ、制服も校則もない、すべて生徒の自主性に任された自由な校風。英語の授業は普通の高校の2倍。第二外国語にフランス語かスペイン語。

外国人の先生も頻繁に加わり、ディベートや自分の意見をまとめるライティング、シャドウイング、英文タイプなど「語学のスペシャリストを育てる」という目的のもと、公立高校としてはかなり攻めたカリキュラムの学校でした。シャドウイング(流れてくる音声を後から追いかけるように発話して舌を鍛える発音練習)なんてやっている公立校、そうそうなかったと思います。

その後の私の語学力の基礎はこの学校で培われたものです。入試のテクニック的なことよりも、語学を扱う、その先でなにをどうするのか? ということを毎日毎日みっちり仕込まれました。

学ぶということについて先生方はものすごく厳しかった。パーマをかけようが茶髪にしようが、ボディコンを着ようが(時代ですね)、男の子と遊ぼうが、そんなことはひと言も咎められませんでした。一度すごいヘアスタイルにしたことがあるのですが、担任の先生「あら素敵ね」で終わりです。

反面、試験の採点は超シビアで、できないと実に冷たい。先生方はいつも生徒に真剣勝負で、妥協や甘えは許さないけれど大人として扱ってくださっていたのだなと思います。

祖父の年賀状には湾岸戦争。

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ああ、青春

このころ坂本龍一さんと矢野顕子さんを知り、パシフィコ横浜で行われた坂本さんのコンサートの列の前に並んでいた人とお付き合いするように。親の病院を継ぐために大学に在籍しながら並行して東大医学部を目指すその人と、デートは得意の図書館。英語がとてもできる人で、受験生のバイブル赤本の問題で議論を交わしたり、私が苦手中の苦手の数学を教えてもらったりしました。色気ないわぁ。

横須賀基地の米兵と付き合っている同級生がいて、「彼が戦地へ向かう」と見送る彼女を見送る……というよく分からない役目を担ったことがありました。

多種多様な友人たち

ブラジル経験がマイナスに思えることが多かった小中学校時代とはうって変わって、そんなふうにさまざまなバックグラウンドの同級生に出会えたことで、私の世界は本当に広がりました。

外国にルーツがある子、世界各国からの帰国子女、海外の大学進学を目指す子。「右向け右」だけが正解じゃないということを、なんの苦労もなく共有し合える友だち。集団のなかで「ここにいてもいいんだ!」と初めて思えた場でした。

長期の休みが終わると、アメリカだスイスだと休みの間に過ごした外国のことでしばし話に花が咲いたり、それまで暮らした国のことを話したり。中学までは各国を点々としていたような商社の駐在員の娘のような子も、大学進学が目の前に迫る年代になり、外国の親元から離れて日本に送り込まれていたり。

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我が家はブラジルから帰国後も年に1回は必ず海外に家族で出かけていました。妹も生まれて5人家族、飛行機代だけでけっこうな額だったと思うのですが、レンタカーで回ったり、安いホテルの一室に無理やり5人で泊まったり、食事が屋台だったりと、贅沢からは程遠い、けれどあちこち見て回れるのがとても楽しい家族旅行だったな。

返還前の香港で、中国との国境まで電車で行ってみたり。ソウルだけに1週間滞在して韓国の庶民的な料理をひたすら食べまくったり。

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そんな話を気兼ねなくできるようになったのも、この高校だったから。

10年ほど続けていたバレエとジャズダンスにものめり込んでいて、ミュージカル女優になりたいという野望もまだまだあり、親に内緒でオーディションを受けたりしていました。

ただこちらは、ライバルたちを見ればみなスラッと足が長い、顔が小さい、スタイルがよい! チビで胴長短足の自分はどれだけがんばっても敵わない……と、大いなる挫折を味わって、大学受験に専念することにしました。なんでしょうね、人と自分を比べて、競う前から言い訳をしてやめてしまうのってズルいなぁといまは思うのですけど。

ロゴスの使徒

校歌はいまでも歌えます。

ひたすらに築こう 平和と交易(まじわり)
世界に羽ばたくロゴスの使徒(つかい)

ロゴスはギリシャ語で「論理」「理性」「言語」を表す言葉だそうです。

言語はコミュニケーションの手段でもありますが、思考を組み立てる道具でもあり、マルチリンガルで育つ子どもにはアカデミック・ランゲージ(高度な思考のための第一言語)を早めに決めたほうがよいと言われます。

言葉がないと、人は「考える」ということができない。それはとりもなおさず、目の前の人や環境の、可視化されていない部分を想像することができないということでもあると思います。嬉しい悲しいは分かっても、なぜそうなのかが分からない。

「目の前の人」というミニマムなところから「国と国」のような大きな視点まで、異なるカルチャー同士が相互理解を深め、認め合い、互いを受け入れるには、言葉が必要なのです。なぜなら、言語を学ぶとは、その言語が使われる文化背景も同時に学ぶことだから。自動翻訳にはできないことです。

そして文化背景を知ることにより、逆説的に、嬉しい悲しいを理屈抜きにただ感じて共有できるというのも、人間の素晴らしいところだと思います。

米兵の恋人が乗った戦艦を見送りに行った友人が、その後どうなったかさっぱり記憶にありません。ただ、それは戦争がとても身近に感じられたできごとでした。

言葉を学び、世界を平和にする一端を担うのだという野望。このころの私の目線はどこまでも遠くを見ていたように思います。

大きくなった孫たちが外へ外へと出ていくのと合わせて、祖父の年賀状からは私が消えました(笑) 顔を出せば相変わらず甘々の祖父で、当時まだ高価だったシンセサイザーやマルチトラックの録音機材など、高校生には分不相応な器械類をたくさん買ってもらいました。おじいちゃんありがとう。

【以後、葬りたかったけど載せちゃえ企画】

こちら学園祭で気持ちよく自作の曲を弾いていますね。

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写真だけならまだよかったのですが、去年、20年ぶりにパンドラの箱を開けてしまいまして、思い出すだに恐ろしいスコアが出てきました。闇に葬ろうかと思いつつ、これも青春の証(だと思いたい)。せっかくですので載せておきます。鳥肌立ちそ……。

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もっと恐ろしいものも出てきましたので、ご興味ある方は……。

いま必要があって日常的に自撮りをいたしますが、このころからやっていたのですねえ。ハンディカム、買ってもらったような記憶がございます。

おじいちゃん、ありがとう。

文芸部の冊子に載せた小説も出てきました。すごいなあ、恥ずかしいなあ。意味が分かりません。なにを考えていたのか、まったく記憶にございません。踊る、作詞作曲して歌う、小説を書く。自意識が漏れて漏れて漏れ出でる、そんな高校時代でございました。ああ、恥ずかしい。

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