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『テーラー 人生の仕立て屋』

ギリシャのソニア・リザ・ケンターマン監督の長編1作目である『テーラー 人生の仕立て屋』。配給会社から、試写を観てコメントを書いて欲しいとの依頼があった。毎日何かしらの映画についてソーシャルメディアで書いているので目に止まったのだろう。送られてきた予告編を観た限り、かなり好みのジャンルだったので映画の専門家でもないが引き受けることにした。

物語の舞台はアテネ。老舗の高級紳士服の仕立て屋が、主人公ニコスが父親と働く仕事場だ。ギリシャの不況や時代の流れでスーツを仕立てる顧客は激減し、経営難で店は差し押さえられる。そのショックからか昔気質の父は倒れ、入院してしまう。何とか経営を立て直さなければとニコスが思いついたのが移動販売。市場などに出かけて行ってセールスを試みるが、まるで売れない。あるとき「ウェディングドレスを作って欲しい」という注文を受けたことで女性の服作りに挑むことになる。隣家のオルガとオルガの娘ヴィクトリアの手助けもあって、徐々に仕事は増えていく。しかしそれをこころよく思わない者もいた。

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という話だ。

物語は薄暗く厳かなニコスの仕事場の風景から始まる。ミシンやハサミ、スーツの生地などが台詞のない美しいアップの映像の積み重ねで描かれる。毎日使う道具の整頓のされ方、数十年変わっていないだろうと思われるニコスの静かな所作、それらがアテネという街の持つ伝統の重さと美意識の高さをあらわしている気がした。

映画の中でニコスが着ているスーツはギリシャの生地専門店であるタキス・ストゥルナラスに生地を選んでもらい、仕立て屋のイリヤス・マラグコスによって一着一着丁寧に仕立てられたものだそうだ。こういった本物の存在が映像を上質にしている。父親の友人がふたり出てくるが彼らは伊達男そのものだし、入院しているときも父親はパジャマであろうとポケットチーフを欠かさないほどだ。

オルガとふたりで女性のための服やウェディングドレスを作り始めてから、父親以外に誰とも話すことのなかったニコスは変わっていく。東欧からの移民であるオルガも強権的なギリシャ人の夫に抑圧される窮屈な日々を送っており、ニコスとの服作りを通して「自分という人間が存在する価値」を見いだしていったのだろうと思う。ケンターマン監督は映画を撮るために必要だと考えて社会学や政治史を学んだそうで、この映画では貧困、ジェンダー、年齢、時代遅れになっていく職業などの問題が盛り込まれている。

映画のストーリー進行に派手さはない。盛りだくさんのエピソードもギミックも、もちろんCGもなく、淡々と日常が描かれていく。そのリアルさに、観ているこちらはまるで現実でも見せられているかのように、ニコスと彼の店が持ち直してくれることを願うようになる。ウェディングドレスが評判になり、大勢の客が路上で試着しているところなどは昔の『VOGUE』のページのようなファンタジーと洗練された美があって、好きなシーンだ。

少し前、アテネとサントリーニ島にロケに行ったことを思い出す。経済はいまだに持ち直したとは言いにくいが、人々の暮らしを眺めているととても豊かに感じた。短い滞在だったが、そこにはずっと残っていて欲しい大切なものや文化があるのがわかった。我々が泊まったホテルの窓から山の上を見ると、何気なくパルテノン神殿が鎮座している。アテネの人々が気が遠くなるほど昔の古代ギリシャ遺跡を背景として現代を生きていることに不思議さも感じた。こういうヨーロッパ独特の日常を淡々と描くシックな映画は、なくならないで欲しいと思う。

9月3日(金) 新宿ピカデリー、角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかで全国公開

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。