おっさん地獄とポテトサラダ
先日、ある店で食事をしたときのこと。
味覚が幼稚な俺はポテトサラダが大好物なので、居酒屋的な店では必ず頼むことにしている。「羅針盤・活版印刷・ポテトサラダ」という人類の叡智から生まれた発明には敬意を持っているからだ。
「ポテトサラダはありますか」と聞くと、店の若いお兄さんは「ないです」と答えた。今日は売り切れてしまった、のではなく、メニューにないというニュアンスだった。ここはけっこう大事なポイントで、メニューには店の姿勢が出る。うちはこういうものを提供する店ですという意志のあらわれなのだ。
「うちはポテトサラダを出すような庶民的な店じゃないんだよね、という意味ですか」
練りに練ったイモがどうしても食べたかった俺は、そうたずねた。
「いえ、違いますけど」
おっさんになる前には考えられないほど無神経なことを言っている自分が俯瞰で見えた。これがすなわち「おっさんになるという地獄」である。若いうちは自分が他人からどう見られているか、どうしたら好かれるか、悪意をもたれないか、何が流行っているのか、とマガジンハウスやコンデナストの出版物全般を読んで学ぼうとするんだけど、そんなところに答えがないことは数十年後にキッチリとわかる。流行なんて何も知らないバリバリの無神経でも好かれている人に出会うからだ。
自分は自分でいいのだ。相手に敬意さえ払っていれば、自分のサイズを大きく見せたり、流行を追ったりしなくてもいいのだ、とわかってくる。おっさんは地獄の無神経に見えるが、若い人は自信のなさから神経質すぎることもある。その中間のいいカンジのアベレージを維持するのが大事な矜恃なのだ。
俺はいつもマニュアルから外れたいと思っている。「牛丼、並」という単語だけの機械的な注文はしたくない。喫茶店でスポーツ新聞から目を離さずに「ホット」とだけ言う部長クラスも、店員への敬意がなく、好ましくないと思う。サービス業の相手は自動販売機じゃないのだ。
さっきの店の話に戻るけど、刺身の盛り合わせなどが運ばれてきたとき、店員がにこやかに言う。
「これ、ポテトサラダじゃないんですけど、それっぽいモノを付け合わせにしておきました」
ポテトサラダ欲を軽やかに満たしてくれるイモのサイドディッシュを即興で作ってくれたのだ。決まり切ったサービスを提供するだけじゃなく、かように人と人の気持ちが通う瞬間は有り難いなあ、と感じた出来事だったと思いながら、おはようございます。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。