銀の指輪:博士の普通の愛情
ここ最近、食べ物や飲み物などを買いに行く数十分以外は、ずっと仕事場にこもりきりだ。だからこれはかなり確率が低い、「誰かにとって不運な出来事」だと思っていい。
外資系の高級ホテルの前に、目立つ赤いイタリア車が停まる。助手席から知人の女性が降りてきたのが見えたので近づいていくと、見知らぬ男性が続いて降りてきた。その女性は僕の友人の奥さんだ。
ふたりはごく普通の客より、ほんの少しだけ足早にホテルの中に入って行った。イタリア車はホテルマンによって地下の駐車場に運ばれていく。クルマに疎い僕でも、それがおそらく数千万円くらいはするものだとわかる。
彼女の旦那とは10年ほど前に仕事で知り合った。とても純粋で素朴な職人だ。その時は僕の撮影に使う小道具を探していたんだけど、気に入るモノがまったく見つからなかった。何度も持ってきてもらっているうちに、プロップ・スタイリストの機嫌が悪くなり、「だったらもう作るしかないですよ」と言ってアクセサリー作家の名刺を僕に渡した。
最初から頼めばよかったと思ったほど、彼はシルバー・アクセサリーを素早く理想通りに作ってくれた。僕は職人が好きだ。自分を大きく見せようとせず、他人に褒められても謙遜する。そういう人は必ずいい仕事をしてくれる。それから何度か仕事をしたり、妻にプレゼントするためにオリジナルデザインの指輪を作ってもらったりした。
「ねえ、この値段でいいのかしら」と妻が言ったことを憶えている。僕はそういうものの相場がまるでわからないから何も考えずに支払ったんだけど、彼女は、「このクオリティでこの値段はあり得ないほど安すぎる」と言うのだ。彼に聞いてみると僕を特別扱いしているのではなくて、いつもその値段だという。欲がないのだろうと思った。
僕は「リリー」というあだ名の彼の奥さんがなぜイタリア車の男とホテルに入っていったのかを探るつもりはなかったが、「コーヒーでも飲もうかな」と自分に言い訳をして、ホテルのラウンジに向かう。
「The Lobby」という一般名詞のような店名のラウンジでアイスコーヒーを頼む。友人が書いた『ロバート・ツルッパゲとの対話』という本を買ったので、しばらくそれを読んでいた。圧倒的に面白いというほどではないが、誰もが必ず買った方がいい本だと感じた。
20分ほどして、ラウンジにリリーがあらわれた。僕は数回ほど立ち話をしただけだから向こうが憶えているかはわからなかったが、一応サングラスをかけて本を読んでいるふりをした。リリーはさっきの男と一緒に僕のすぐ斜め前の席に座った。話していることがはっきりと聞こえる距離。
親しげに話しているが、決定的な言葉を聞くことはできなかった。いや、決定的とは何だ。僕は何を想像しているのか。
リリーの服がさっきと変わっているのに気づいた。ホテルに入ったときは確かシンプルな赤いワンピースだったのに、今は黒いスーツを着ている。友人のために僕は事態をできるだけ穏便な方向で理解したかった。ただのミーティングか何かかもしれない、と。しかし男女が一度ホテルの部屋に行って服を着替えたのだとすれば、それは考えにくい。
もしも彼らが男女の関係であるなら、バカみたいに目立つ赤いイタリア車でホテルに来るだろうか。そして部屋に行ってから20分後に着替えてラウンジでコーヒーを飲んでいるなんてことがあるだろうか。この「必要な時間」については個人差があるから何とも言えないが、どう考えても不自然だ。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。