トートバッグ(後編):博士の普通の愛情
サヤカは地元の市役所に就職してから数年した頃、一人暮らしがしたくて上京し今の会社に勤めることになった。あまり派手なことが好きな性格ではないが、毎日農家の話ばかり聞かされていたのと比べればだいぶ刺激がある。東京の飲食業界で働く人々は地元の農場や牧場にいたおじさんたちとは種類が違っていた。地方にはいない人種が面白くて人間観察をしていたが、彼らにはいくつかのパターンしかないことがすぐにわかった。
サヤカの会社はレストランチェーンを自社で経営したり、関係のある会社が出店するレストランのプロデュースやコンサルティングを主にしていた。取引先の人たちは地方で経営する農場や牧場の食材を使ったレストランを出すタイプ、バーなどのどちらかというとお酒を中心にした会社があった。前者は地方の創業二代目などで木訥な人、後者はいかにも水商売という匂いがする人たちで、こちらは六本木っぽいというか、ちょっと脂ぎっていて苦手だった。
サヤカは自分が地元の役所で牧場の担当だったということは誰にも話していない。ある農場視察のとき、つい専門用語を使ってしまって社長に不思議そうな顔で見られたことがある。仕事と自分のプライベートな環境はできるだけ切り離しておきたいのだ。
近藤はそのどちらの典型的なタイプにもあてはまらなかった。お金を持っていても身につけるモノにはひとつもブランドのロゴがついていない。もちろん服も鞄も靴も上質なことは一目でわかる。育ちがいいのだろう。彼は初対面の会議の席で、「100万円のモノは、お店で100万円支払えば誰にも買えるんです。それは贅沢でも自慢でも何でもありません。僕は、それだけのブランド価値を生み出している人と対等に話せる相手になりたいと思っているんです」と言った。「ああ、この人は違う」と思った。
帰り際に近藤がくれたトートバッグを部屋で開けてみた。誰かからもらったものに心が動くのは久しぶりの経験。婚約者の彼は「モノ」に何も興味がない人なので互いの誕生日ですらプレゼントを贈り合ったりしたことはない。そこにやや後ろめたさを感じながらビニール袋を破る。
アニメのキャラクターが雑に印刷されたコットンのトートバッグの中には、100万円の束が4つ入っていた。
すぐにパソコンから近藤にメールをする。
「お世話になっております。今日はありがとうございました。社長も近藤さんのプレゼントを喜ぶと思います。いただいたトートバッグ、ありがとうございます。それで何かの間違いだと思うのですが、中に現金が入っていました。直接のお渡しか、お振り込みか、ご返却の方法を教えてください」
数日間、近藤からメールの返事はなかった。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。