銀の指輪「4」:博士の普通の愛情
私は自分の目が衰えてきているのに気づいた。老眼などではない。何かしらの病気なのだと思う。世界のすべてを見たいと思ったこの目が見えなくなる。
彼女とふたりでいるこの空間が、光を失った部屋になってしまう。私の目が閉じても、毎週、彼女はこの古びた屋敷を訪れるだろう。それが仕事だからだ。私は彼女に手を触れたことがないが、その輪郭を知って物語を生み出すためには頭の先から踵までをなぞる必要がある。いや、もう文章など書いていないかもしれない。
人は生まれてから死ぬまで、何度の雨を見るのだろうか。私が3歳くらいの時から雨を認識できたとして、60年間、東京の降雨日数は平均して年間106日、6360回の雨を見たことになる。そのうち彼女とふたりで見たのは3度。私は雨が降っている日の空気が似合う女性が好きだ。
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「へえ。生まれてから何度雨を見たか、か」
妻が僕の独り言を聞きつけて、
「何」
と聞く。
「きみは44歳だったよね。ということは、41年として4346回だ」
「何の回数なの」
「雨を見た数だよ」
「ふうん。考えたこともないわ。気象の本なんか読むのは珍しいね」
「いや。年寄りの作家が主婦を自宅に呼んで、絵のモデルのように物語を考えるっていう小説」
「いやらしい小説だね」
「やっぱり、いやらしいよな」
「うん。いやらしい」
「芸術なんだってさ」
多くの、というかほとんどすべての男性が女性を性的な目で見ているのは言うまでもない。しかしあの小説家や、若い頃の僕がギタリストの奥さんに感じていた気持ちは性的なものなのか。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。