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コインパーキングと握力:博士の普通の愛情

僕は音楽雑誌で仕事をしているカメラマンで、彼女はそれほど名が知られてはいないミュージシャンだった。今はもう関係がなくなってしまったからこうして話すことができるんだけど、僕は数年前の一時期、ガールズバンドのベーシストである彼女とつきあっていた。

音楽雑誌の取材で知り合い、彼女も西荻に住んでいるというので撮影が終わってから一緒にタクシーで帰ったのがきっかけだった。駅に近い「FRIDA」というバーに寄った。そこでは音楽の話ばかりしていた記憶がある。好きな音楽と、彼女がバンドで求められている音楽が違いすぎるのが悩みだというウンザリするほどありきたりな話をしていた。

店を出る頃には、僕から話すことはなかった。テキーラを飲みながら彼女の終わりのない話を聞き、「うん。そうだね」と相槌だけ打っていた。内容は少しも憶えていないが、話している横顔を見ていると幸福になった気がした。

彼女がもう歩けないと言うので、家まで送っていった。写真を撮る人間の観察眼は鍛えられているから、玄関の鍵を開ける仕草が酔っている人の動きじゃないことはすぐにわかった。僕はその演技に乗ってあげることにして、部屋の奥まで肩を抱きながら彼女を運んだ。

「もう遅いから泊まっていっていいよ」とベッドにうつぶせた彼女が言う。やはりそうきたか。男はどんなときでも傷つく役割を引き受けなくちゃならない、と僕は父から教わった。女性が何かを求めているときに正論をもって拒否してはならない。彼女には「ダビデの星」のタトゥーがあった。

その日から3年くらい、僕は彼女の部屋で過ごした。

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話していると楽しい。テレビを見ていると同じところで笑う。そんなどうでもいい理由でずっとそこにいた。僕らは互いにいつも忙しかったから、あまりべったりと長い時間を一緒にいることはなかった。そうじゃなかったら僕はもっと早く部屋を出ていたと思う。

つい数日前に彼女と偶然、代々木上原のカフェで会った。「元気だった」「久しぶり」なんて、ごく普通の友人の再会っぽい挨拶をする。

僕らがなぜ別れてしまったかは今ではもう憶えていないし、そんなことはどうでもいい。どちらが悪いということでもなかったし。ただ、期限が切れたのだと思った。

「たまに雑誌であなたの名前を見るよ。そのときはちょっと胸がぎゅっとなる」と、カフェオレをかき混ぜながら、彼女は言う。「バンドはやめたの」と聞くと、僕と別れてしばらくして、あのバンドは解散したと言った。薬指には結婚指輪があった。結婚して代々木上原に住んでいるのだという。

「今はね、主婦。私が主婦だよ。驚くでしょ」
「いや、別に驚かないよ。たぶんいい奥さんになると思ってたし」
「そんなこと、一度も言ってくれたことなかった」
「うん。言ったら、それは誰と、って話になりそうだったから」
「私たちじゃダメだったんだね」
「そんなことはない。自分がモラトリアムだっただけ」

あの頃とまったく同じだ。僕はいつも何かに対して自分の意見を表明しない。その場で誰からも嫌われないことを言って逃げているだけだ。

「私ね、嫉妬の塊だったんだよ」
「そんなこと言われたことあるかな」
「ないよ。嫌われたくないから一度も言わなかった」
「たとえばどんなときに」
「ほら、あのユリカって歌手。あの子のヌードをよく撮ってたでしょ」
「ああ、忘れてたけど、そんなことあったね」
「撮ったことを忘れるんだね。私はユリカだけじゃなくて、他の女の裸を撮るのをやめて欲しかった」

彼女はそんなことを真面目に話し出した。右手を左手の上に重ね、意識的か無意識かはわからないけど、指輪を隠しているのかもしれない、と思った。この指輪をくれた人には聞かれたくない話だろうから。

「でも、ただ撮っただけで、誰とも何の関係もなかったよ」
「それはわかるの。仕事だし作品だし、関係がないことくらいわかってた」
「じゃあどうして嫉妬するのかわからない」
「私もわからないよ。でもユリカが死ねばいいと思ってた」
「大げさだな」
「大げさじゃないよ。私は本当にいやだったんだよ。でも私がもし、こういう曲はやるな、って誰かから言われたらいやだろうなと思った。だからあなたがやりたくてやっていることに、何も言いたくなかったの」

僕らはあの頃、こんな話を一度もしたことがなかった。楽しいことだけを話し、一緒にお酒を飲んで音楽の話をして、テレビを見て笑って一緒に寝た。お互いの悪い部分をできるだけ見つけないようにして生活していたのだ。

僕らは「戻らない時間」を懐かしがりながら、今になって初めて、相手をとても大切に思っていたことに気づいたんじゃないか。

「西荻の家の前にあった花屋さん、憶えてる」
「もちろん憶えてるよ」
「あの店、なくなって、今はコインパーキングになってる」
「そうか。残念だな。あそこで何度か花を買ったよね」
「うん。誕生日に買ってくれたことがあった。うれしかったな」
「あのさ、もしも僕らが、」
「それは言わないで。私はあの頃、あなたと二人でいるのが本当に楽しかった。だから思い出すと、減る気がするの。思い出がすり減るような」
「そうか。やり直したり、道を選び直せないのが運命だもんな」
「なんか、すごく懐かしい。そういう言い方。いつもそういう風に言ってたよね」

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。