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ミシンとこうもり傘は出会う。

都知事選に限らないけど「何かの宣伝になるなら、数百万円は惜しくない」というサイコパス的なことを言う人がいる。中には企業の経営に関わる人まで。

そんなものは「ハック」でも「クレバー」でも「費用対効果」でも、何でもない。ゲーム脳だ。自分が書いたコードで世の中のすべてが動くと考える人共通の感覚は、世界をくだらないRPGに貶めている。

「セキュリティホールを突く」といった考え方に支配されているハッカーやクラッカーという人々は、他人の功績をリスペクトしていない。誰かが作り上げた、すでにそこにあるオーソリティのアラを探すことに熱中している。それは「従来のシステムのバグを発見する」ことに繋がる正当性だと考えているんだろうけど、一理あるにしても、その表出方法は極めて幼稚だ。

彼らが小説を読んで「面白かった」「感動した」ではなく、「54ページに誤植があった」という受け取り方しかできないのはなぜか、と機会があれば心理学者に聞いてみたい。それはまさしくサイコパスの特徴でもあるんだろうけど、人が積み上げている積み木を見つけたら蹴り飛ばすことしか考えていない。

芸術の多くは「破綻」でできている。なぜそんなに整合性のない出来事を描写するのか、なぜ解剖台の上でミシンとこうもり傘は出会うのか、それこそが平穏な仕組みに慣らされた脳を活性化させる行動であり、アートだ。

オーソリティの破綻を発見して提示するアートと、破壊のクラックとの違いは明らかで、それをすることによって世界がよくなることを目的としているのか、ただの怨念と揚げ足取りかということ。

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それをゲーム脳、コンピュータ脳だと思うのは、自分が初めてコンピュータを触ったときに思った経験からだ。

当時のMacにはHyperCardというソフトがあった。ビル・アトキンソンが作った、今となっては電子ブロックくらいにしか感じられないほのぼのしたソフトだが、HyperTalkという言語でスタックと呼ばれるファイルをオーサリングできるのは画期的だった。

それをプログラムしているときに、命令が正しければ動くが間違えていると動かないという当たり前のことを感じたが、ここに大きな落とし穴がある気がした。つまりコードを書く作業は「命令の正しさ」を盲目的に信奉することになるという危険。俺が書いた命令通りに動かないのはお前が間違っている、という全能感を育てるんじゃないかと危惧した。

やはりAIでもVRでも、進化するごとに同じことが起きている。テクノロジーはヒューマニズムを具体化するための隷属物であったはずが、いつの間にかそれだけが独立して動いている。大昔からマッド・サイエンティストという言葉はあって、テクノロジーのみを追求して暴走することが「マッドである」ことを誰もが知っていた。

現在の状況の恐ろしさは「マッドで何が悪いの」と素朴な顔で聞くサイコパスの跋扈だ。それが冒頭の「都知事選に供託金を払えば、宣伝ができるよね」という考えに繋がっている。「YouTubeの利益が、捨てた供託金を上回るならそれはコスパがいい」と書いていた人もいた。

さらにそういうことを考えつく人には能力がある、と思って評価する人々もいる。

これについては本が一冊書けそうだけど、尊敬すべき人々、上質なマッドを乗りこなしている人、それによってものすごく魅力がある人々との時間の方が大切だから、つまらない人の分析に時間を割くことはこれからもないだろうなあと思いながら、おはようございます。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。