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銀の指輪「9」:博士の普通の愛情


カナコさんからベースとレコードを受け取った数日後、僕はあのホテルのカフェでリリーと待ち合わせをしていた。

少し早めに着いたつもりだったのだが、リリーはすでにそこにいて、コーヒーは半分ほど減っていた。

「あのさ、きみはあれを読んだってことだよね」

「もちろん。片桐くんと関係があると思ったから送ったの」

いつの間にかリリーは僕を、片桐くんと呼んでいた。

あるとき、仕事で初対面の人と名刺を交換しながら、歳が同じですねと話したことがある。その島田さんという人とは何年か仕事を続けていたのだが、彼がいつからか僕を「片桐くん」と言っていることに気づいた。こちらは最初からずっと変わらず「島田さん」と呼んでいたし、彼も「片桐さん」と呼んでいたのだ。

なぜ数年したあと、急に呼び方を変えたのだろう。お互いの立場や上下関係が変わったわけでもない。どうしてそんな面倒なことをするのだろうと思った。僕がそれに気づいているかなどは気にしていないようだった。その無神経さに「おい、島田」と呼んでやりたかった。仕事の相手だから当然そんなことはしない。ただ「片桐くん」と呼ばれるのを受け入れてきた。自分が波風を立てたくない人間であることを恥じながら。

「先生から連絡が来たから、部屋に行こう」

エレベーターの中で、僕らふたりが頻繁にこのカフェで待ち合わせて部屋に行くのを他の人が見て邪推しても不思議はないよな、と思った。他人は誰かの事情や感情を勝手に想像し、解釈する。それが事実であろうとなかろうとお構いなしだ。自分だってそういう邪推をすることがある。だから他人も同じことをするはずなのだ。

部屋に入ると、ジョギングウェアを着た先生がソファに座っていた。

「片桐さん、こんにちは。今日はどういう用件でしょう」

「ストレートに聞きますけど、先生は僕の妻をここに呼んだことがありますね」

僕の隣に立っているリリーの口元が視線の片隅に映り、うっすら笑っているように見えた。

「どういう推理で片桐さんはそう思ったんですか」

「そんなくだらない駆け引きをする気はないんですよ。呼んだのか呼んでいないのか、それだけを聞いています」

「彼女から聞きましたよ。書きかけの原稿の断片を片桐さんに送ったって」

「僕と妻だけしか知らないことが書いてあった。だからあなたは妻から聞いたはずだ」

「よくわからないですけど、私が書いているのはあくまでもフィクションですよ」

ふざけるな。妻の行動と合わせても状況証拠がありすぎる。とぼけるつもりなんだろうか。

「じゃあ、片桐さんは彼女と同じように、あなたの奥さんもこの部屋に来ているんじゃないか、と思っているんですね」

「先生、あなたは頭のいい人なんでしょ。まるで馬鹿のようなことを言っていますよ」

「わかっている状況をひとつずつ整理しているだけです」

「来てるんだろ」

「もし来ていたら、片桐さんはどういう感情を持つんですか」

彼はサイコパスなのではないか。この男は自分以外の人間の感情をただの実験の材料としか思っていないのだろう。彼が話す言葉が日本語ではないんじゃないかと感じるほど頭に入ってこない。これ以上話していると彼を殴ってしまうかもしれない。

「お前の小説の題材にするための質問に答える気なんてないよ。来たことがあるかないかだけ答えろ」

「ありますよ。奥さんはね、リリーよりも前から来ているんです。この仕事をリリーに教えたのも奥さんです」

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。