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横須賀の滋賀の子:博士の普通の愛情

高校生の頃、よく横須賀に遊びに行った。友人に教えてもらった、R&Bやソウル・ミュージックのレコードをかけるバーが目的地だった。

どの店にも常連のおじさんやお姉さんがいて、子供の僕を迎え入れてくれた。「今、かかっているのは誰ですか」と聞くと、レコードジャケットを指さして「ジェームズ・ブラウンだよ」とか「サム・クックだ」などと教えてくれた。僕がモータウンの音楽を知ったのもその場所だった。

当時はまだアメリカの兵隊が多く飲み歩いていた。外国に行ったことがなかった僕は片言の英語で彼らと話すのが好きだったんだけど、学校で教えられた英語を笑われた。「お前の英語は南北戦争の時代みたいだな」と言って、普段使う言葉を教えてくれた。あまり上品じゃないスラングが多かったけど。

いつも日曜の昼に横浜から横須賀線に乗って横須賀に向かう。「ハニービー」という古くからある店でタコスを食べる。そこのおばちゃんはメチャクチャな英語でマナーの悪い米兵とよく喧嘩をしていた。アメリカに行ったことがない僕には、ハニービーがアメリカだった。

食べ終わると三笠公園を散歩したり、汐入公園でぼんやりしながら、ソウルバーが開店するのを待つ。「S」という、早い時間から開いているプールバーに行くこともあった。ビリヤードはあまりおもしろくないからやらなかったけど、人がやっているのを見るのは好きだった。ここには白人しか来ない。横須賀の店にはれっきとした区分けがあって、白人が来る店ではロックがかかっていて、黒人が多い店はソウルばかりが流れていた。あまり両者が混ざって飲んでいることはなかった。

夜中遅くまでいると、たまに喧嘩がある。観察していると、発端になるのはだいたい若い白人だった。楽しそうにビリヤードをしていたかと思うと、いきなり誰かに掴みかかって殴り合っていた。黒人はちょっと違う。ヒートアップしていく姿がわかりやすいので、危険を察知してその場を離れることができる。

初めてニューヨークに行ったときにもそう感じたが、当時、治安が最悪だったタイムズ・スクウェアでろくでもない行動をしているのは白人が多かった気がする。

よく行っていた「C」という店のマスターはとてもいい人で、僕はそこでかかる音楽が好きだった。ある日の夕方、少し早かったが店の前に行くと、マスターが地面に座りこんで、うなだれていた。

こちらに気づいて顔を上げる。いつもならにっこりしてくれるのに表情が険しい。「今日は店を休もうかな」と言った。理由を聞くと、前日の夜に大きな喧嘩があり、店にあったグラスが全部割れたのだという。やってられないという様子だった。せっかく来たのに残念だなと思って別の店に行く。

深夜になって「C」の近くを通りかかると、ドアの隙間からスモーキー・ロビンソンの曲が聞こえた。やっているんだ。店に入るとマスターはあの笑顔に戻っていた。近所の何軒かの店が心配して、みんながグラスを持ってきてくれたらしい。僕は奥のソファの席でコーラを頼んだ。ミラクルズの曲を聴くと、バラバラのグラスがテーブルに並んでいたあの夜のことを思い出す。

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どぶ板通りの区画整理があり、「C」はなくなってしまった。しばらく行ってない時期があったのだが、なくなることも知らないままそこは更地になっていた。マスターはどこか別の土地で同じような店をやっていると誰かから聞いた。

当時、僕は高校1年生で、男子校だったこともあり女性にはまったく縁がなかった。男臭いソウルバーにばかり行っていればそんな機会などない。

ある日、ハニービーから汐入公園に行き、ベンチに寝転がって文庫本を読んでいた。ブランコに女の子がずっと座っているのは知っていた。髪の長い綺麗な子だった。あきらかに俺と同じでやることがなさそうな雰囲気だったので、だんだん彼女が気になってきた。その子がベンチの方に近づいてきたので、僕は飛び起きた。「座りますか」と聞くと、隣のベンチに座った。「こっちに座るから大丈夫」と言う。

とても不思議な感じの子だった。何もせずに隣のベンチに座っている。僕も女性と話すのに慣れていないから、何度も頭の中に台本を書いて、セリフを間違えないように話した。

「ひまそうだけど、何してるんですか」

「ひまだって、ばれたか」

彼女は誰とでもフランクに話せるタイプなのだろう。僕とは違って、おそらく頭の中で台本は書いていないのだろうとわかった。

「お母さんを待ってるの」

女性の口から家族の話が出るときは目の前の男を警戒している、くらいのことは僕だって知っていた。もう話しかけるのはやめておこうと思ったが、彼女は平然と話し続ける。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。