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暗証番号:博士の普通の愛情

僕は本当に何もできないのだ。他の人がどれくらいできるかなんて知らない。でも自分ができないことだけはわかっている。特に事務手続き。

会社に入ってしばらくは実家から通勤していて何も不便はなかったのだが、「そろそろ一人暮らしでもしてみよう」と思う瞬間があった。若い男の子が地方から上京して東京に部屋を借りる、というテレビ番組をたまたま見たからだった。

彼は東京に就職が決まり、母親とふたりで物件を探していたが、案内をする不動産屋の青年の感じがとても悪かった。茶髪でルーズなスーツを着て、ガムを噛みながら地方から出てきた親子に失礼な口をきく。

「そりゃそうですよ。東京だから当たり前っす」

家賃が予算より高いわね、と母親が小さな声で言ったのを彼は聞き逃さず、不機嫌な顔でそう言った。僕はその親子の行く末が心配で、たいして面白くない番組だったのだが最後まで見てしまった。彼の部屋が見つかるまでは付き合わなくちゃいけない。

結局、高島平の近くのコーポというのか、木造アパートよりはやや小綺麗な感じの部屋に落ち着いた。会社は大手町だったから彼はこれから満員電車の洗礼を受けるのだろう。親子はちいさな離島に住んでいて、そこには電車が走っていないのだと言った。その話を聞くと「東京だから当たり前っす」と言った若い男の言葉がさらに無神経に感じられた。

彼が中学の修学旅行で初めて東京に行く前、予行練習だと言って先生が体育館に生徒を集めたという。生徒は7人。体育館の床にはビニールテープでいくつかのラインが引かれ、駅の自動改札を模した段ボール箱が用意されていたそうだ。

「ここに乗車券を入れると向こう側から出てくる、そうしたら素早く受け取るのだ」

と先生が説明したそうだ。段ボール箱はこの時期に何年も使われてきたようで、角にはガムテープで補強されたあとがあった。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。