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一ノ瀬りえ:博士の普通の愛情

あまり映画館に行かない自分が観た数少ない映画の中の一本。それはある日の時間つぶしに新宿のミニシアターで観たものだ。友人に待ち合わせの時間を14時と伝えたのに、彼は4時だと思っていたと電話があった。途方に暮れた僕はたまたま目の前にあった映画館に入った。

小さな映画館は平日だということもあり、数人しか観客がいなかった。ミニシアターなどとは無縁なのでそれが休日だとどうなのかもわからない。そこで観たのは低予算だと思われる邦画で、テレビで見かけるような役者はひとりも出ていなかった。香港映画を安っぽくしたようなギャングのアクションシーンから始まったところで、時間つぶしとはいえ、この狭くて硬いシートに座ってしまったことを後悔した。

途中からひとりの女性が出てきた。主人公ではなく重要な脇役とでもいうのだろうか。ちいさめのスクリーン一杯に、黒いタートルネックのセーターを着た彼女が映ったとき、僕の心臓がいつもより少し多めに血液を送り出したような気がした。ポニーテールであることでより際立つ、細く長い首がタートルネックと似合っていた。ストーリーはよくおぼえていないが、彼女は何かの理由で泣いていた。

暗い映像が続く中、明るい海辺のシーンになった。スクリーンの光でまばらな客席が見えた。僕の斜め前に女性が座っている。後頭部だけでは判別がつかないがもしかしたらその女優ではないかと思った。数人しかいない客の中で、ひとりは出演者か、とミニシアターの実情を知る。映画はお世辞にも面白いとは思えなかったし腰も痛くなった。上映が終わり館内のライトがまぶしいくらいに点灯したとき、客席に座っているのは僕をのぞいて6人であることがわかった。スクリーン袖のカーテンから映画館の係員がマイクを持ってあらわれ、「これから監督と、一ノ瀬りえさんのトークがあります」と言う。

40代くらいの監督と一ノ瀬と紹介されたタートルネックの役者が客席から立ち上がってステージ上にふたつ置かれたパイプ椅子に座る。4人の客はそのまま残っていた。監督が熱っぽく映画のコンセプトや映画制作環境の愚痴などを語っている。ステージ上にふたり、客席に5人。僕が知っている舞台挨拶というのは、何百人ものファンが押しかけたとテレビのニュースなどで流れるものだったから、あまりにも違う状況に心が痛くなる。

ずっと監督の話に相槌を打っていた「一ノ瀬りえ」が話し出す。落ち着いた話しぶりで、とても心地よい声だった。監督のつまらない冗談にも丁寧に返事をしていて好感が持てた。僕は腰の痛みを忘れ、いつもとは違う場に居合わせたこの一連の出来事に満足していた。近くの喫茶店で遅れてきた友人と会ったとき、その話をした。彼は以前、映画関係の仕事をしていたこともあり、「その監督も女優も聞いたことないな。まあミニシアターなんてどこでも客は入らないし、そんなものだよ」と言う。「そんなものなのか」と僕は答える。

友人との用事を済ませたあと、また映画館の前を通った。ポケットからスマホを取りだし、忘れないようにポスターの写真を撮ろうとしたら、それが貼られていた自動ドアが左右に開いて、中から一ノ瀬りえが出てきた。

「ごめんなさい。いまポスターの写真を撮っていたんですよね」
「いえ、大丈夫です」

一ノ瀬はポスターの横に立って

「さっき私の後ろで映画を観られていたかたですよね」

と言う。僕が、そうです、と答えると

「ポスターと私、一緒に写してくれる気はありますか」

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。