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知らないドア:Anizine

それは清潔感があり新しい「中の上」もしくは「上の下」くらいのホテルでの出来事だった。僕は仕事とも言えないような適当な用事でその街にいた。数回は訪れたことのあるアジアの国で、ホテル選びを失敗すると悲惨な目に遭うというのはわかっていたから、まあまあいいホテルを予約した。

滞在中は何も問題はなかった。ただひとつ「知らないドア」をのぞいて。

空港からそれほど遠くないホテルに昼頃着いた。初老の男性が私の予約ステータスと部屋の清掃状況をモニタで見ながら、「まだ時間は早いが彼をチェックインさせる」と若いベルスタッフに指示した。僕は、小さなバッグひとつで来たので荷物は運んでくれなくても大丈夫だと言い、ひとりでエレベーターに乗った。

エレベーターの中は一面金色の壁。とは言ってもピカピカではなくサテン仕上げなので思ったよりも下品には見えなかった。聞こえるか聞こえないかくらいの音量でエリック・サティがかかっている。22階で降りるとすぐにガラスのドアがあった。ルームキーをかざすとドアが開く。そのフロアは廊下が左右に分かれていて、僕は右に進む。そこでもう一度ルームキーを使いガラスのドアを開ける。セキュリティは万全のようだ。

部屋はかなり広く、ひとりだし数日の滞在でもあるので貧乏性の僕には勿体なく感じるほどだった。電動のカーテンを開くと窓からは大きな湖とそれを囲むように広がる公園が見えた。いい部屋でよかった、とそのときは思った。日本に比べるとかなり暑いはずなのでジャケットを脱ぎ、Tシャツ一枚になって出かけることにした。空港の建物の中からタクシーでホテルに着いたのでほとんど外の空気を感じていなかった。ホテルを出た瞬間、湿度と温度の高さで顔が歪む。まぶしいのか笑顔なのかわからない自分の顔が鏡張りの柱に映るのを見た。

これがアジアだ。

マレーシアやバリ島などの空港を出た途端、灼熱の太陽を感じるのは楽しいものだけど、東京の夏は「根拠のなさ」に苛立つ。腹立たしくさえ感じるのだ。冷房の効いた部屋から見下ろした湖の佇まい、柳の葉が風に揺れるさまは涼しげだったのだが、実際にそこを数分歩くと汗が噴き出した。グレーの霜降りTシャツは胸や脇など汗をかいた部分がクッキリとあらわれるのでこの街には向いていないとわかった。スーツケースの中には着替えの同じシャツがあと4枚あるというのに。

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その日は屋台のような店で地元の料理を食べ、部屋で仕事をしながらルームサービスで夕食、たいした時差もないのに22時頃には寝てしまった。早く寝たので2時頃に目が覚めた。窓から外を見ると湖の周囲の街灯以外はあまりネオンの灯りなどもなく、静かで暗かった。そう。静かだったのだ。

隣の部屋からまったく音は聞こえてこない。誰も泊まっていないのだろうか。この部屋は廊下の行き止まりで、セキュリティドアを超えた先にあるのは二部屋。隣にひとつ部屋があるだけだから、もし隣に人がいないとするとこの区切られたゾーンにいるのは僕だけということになる。何となく背筋が冷たくなるのを感じた。部屋の冷房の設定温度が16度になっていたからかもしれないけれど。

一週間に満たない滞在は特にたいしたことがないまま終わった。帰る日の前日、他のフロアや、僕の部屋の方と同じ構造に枝分かれした廊下の反対側には人がたくさんいることに気づいた。着いてからずっと隣の部屋の客を見ていない。音もまったく聞こえなかった。不思議と言えば不思議なのだが、そういうこともあるだろう。

午前11時の少し前に荷物を整え終わり、チェックアウトの前に忘れ物がないか部屋を見回す。洗面所や冷蔵庫の中、セーフティボックスは忘れがちなところだ。そのときクローゼットがあるコーナーの奥に、あるものを見つけた。

ドアだ。ここにドアがあるのを知らなかった。

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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。