見出し画像

他人の生活はサファリパークじゃない。

ここ数日とても気になっているのが、島田彩さんが書かれた文章だ。

彼女と会ったことはないんだけど、以前お父様に写真を撮ってもらった話を、同じ写真を撮る者として素直に読んだ。その記事にnoteでいくらかの「サポート」をしたような記憶もある(すぐに忘れるので申し訳ない)。

あれは家族の話だった。それからアルバイトを始めたという友人の話を読んだ。それもとても面白かった。この三つの投稿で言えば、家族、友人、まったく知らない人という「関係のグラデーション」があり、距離が離れていくほどに繊細な筆致が求められるのは言うまでもない。

島田さんの別のインタビューで、「たとえ父親であってもアウティングをしてはならないと反省した」という発言を読んだことがある。まったくもって正論だと思う。だとするなら新今宮に暮らすまったく知らない人のことをPR記事として書くときにはもっと繊細になるべきだったんじゃないだろうか。

根っこはまた別のところにある。自治体は広告代理店と商業的な契約をして、「我が町をアピールして欲しい」と依頼する。たとえばそれが銀座だったら話はそれほど難しくない。きらびやかな描写で事足りるだろうし、そもそも周知・宣伝の必要すらないかもしれない。でも今回のようにあまりにもデリケートな存在の町を、美しい包装紙にくるむような仕事は技術的に困難だ。

それが、PR用の文章を書いた人だけの責任でないことくらいわかっている。広告に関わる人間としてそこに至る経緯には多くの既視感があるから、余計に悲しさがあるのだ。

関東に暮らす我々があの町が持っている特性を正確に知ることは不可能だ。だから横浜の寿町のようなところなのだろうと置き換えるくらいの理解しかできないんだけど、おそらく行政側は価値のシフトを考え、ネガティブに思える事実を逆手に取りたかったのではないかと思う。

俺は横浜生まれで、寿町や昔の野毛などを見て育ってきた。今、自分が写真を撮り文章を書く仕事をしている上で、もし依頼されたとしても寿町を「ワンダーランド」であるという扱いで表現することに荷担はしないだろうと思う。フリーランサーが仕事を引き受けて報酬をもらうというのは選別の覚悟だと思っている。

画像1

つまらないエクスキューズをする必要もないんだけど、これは島田さんという若い書き手への批判や攻撃ではない。世の中全体の、自分とは違う生活をしている人々に対する想像力や敬意が不足してはいないか、という問題について言っている。

パブリシティに関わる「ライター」という表現と、自分の作品を発表する「作家」という名乗り方には少なからぬ覚悟の違いを感じる。私はこう信じて書くというのが作家なら、与えられたお題を納得いくように上手にラッピングしてあげるのがライターなのだろう。英語のニュアンスでいうwriterとも違うから混乱するけど。

クライアント、この場合は企業ではなく自治体だけど、ここが広告代理店に発注する、広告代理店がコンセプトを「ワンダーランド」と決める、それに沿った文章を若い書き手に依頼する、という流れだったことはごく普通の経路だからわかる。問題はむしろここにある。人々が暮らすことで町の特性は生まれる。それは長年かけて自然にできていくものだから行政ですら思ったようには変化させられないし、ジェントリフィケーションという商業価値をもって破壊される町の歴史もある。

一番守られなくてはならないのは、ひとりの人が自分の生活を侵されない、暴かれない、という人権の問題。あの町に暮らす人が「我々の生活をあらゆる角度から描いてアピールしてくれ」と頼んでいるわけじゃないのは誰にでもわかるだろう。これは格差でも分断でもなく、人が穏やかに暮らす権利は外側にいる他人ではなく、暮らしている人の基準において守られるべきだということ。

「新今宮ワンダーランド」のサイトには、「絵になる街歩きコース」というコーナーがある。そこに書かれている注意書きがこれ。

お願い:地元にはカメラを向けられるのが嫌な方も多くいらっしゃいます。生活する姿を無断で撮影することはトラブルの元となりますのでご遠慮ください。地元の方に敬意を持って楽しく新今宮を周りましょう。

これを書いたことで免責されるだろうか。なぜカメラを向けられるのが嫌な人がいるという場所をあえて、絵になる、と言いたいんだろうか。

自分が写真を撮る上でしないと決めていることがある。それは「もし自分だったら撮られたくない、と感じる状況を自分で決めておく」というものだ。俺がずっと写真を撮らせてもらっている女性のモデルがいる。いつも協力的な彼女を不思議に思って、絶対にこれだけは撮って欲しくないという状況はあるか、と聞いてみたことがある。彼女は「眠っているところ」と言った。自分が撮られていると意識できない時は撮られたくないのだと知った。

何度も言うけど、この出来事は多くの問題を含んでいる。だからこそ細かい差別であるとか、他人の生活を見世物にするとかいった些末な揚げ足取りにはしたくない。まず、自分が写真を撮る姿勢は今まで間違っていなかっただろうか、と恐ろしくなるし、身が引き締まるのだ。

高級な店でお酒を飲む経済力がある人が、「赤羽の汚い店で飲むのが昭和っぽくて面白い」みたいに話すのを聞くと気分が悪い。それはそこにしか選択肢がない人のことを見下していないだろうか。サファリパークのように見ていないだろうか。

最初、あの記事がPRであると知らなかったとき、妙に感じたのは、タバコのパッケージに書かれたメッセージだった。実際にそういうことがあったとしても、証拠としてそれを写真に撮っておくだろうかという違和感があった。なるほどPRだったのかと知ったときに疑問はとけた。作られたコンテンツなら物語を説明するパーツとして撮っておく必要はあっただろうな、と。そのおかげでタバコをやりとりした人との心の交流という感情は作り物になってしまった。

表現をするというのはどれだけの「覚悟」を持つかということで、自分の名前が載っているものにはどんな経緯があろうとも自分が全責任を負わなくてはいけない。広告の場合はそれでお金をもらっているんだから。書き手としてコンセプトに根本的な齟齬があり、それを正すことができない立場であるなら、仕事を断らなくてはいけない。

自戒を込めて、なんていうダサい逃げフレーズは使いたくないけど、自分ならはたしてどうしただろうかという痛みを感じる出来事だったので、書かせてもらった。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。