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棒でつつかれる。ウンコのように。

去年くらいに『ロバート・ツルッパゲとの対話』を準備していると、ある仕事関係者に言ったら、怒濤のようなアドバイスを浴びせられた。その人は出版とは無関係なんだけど、有名な編集者の本を読んだり話題のビジネス本を読んだりしているらしかった。

俺は心のスイッチをオフにして、耳をシュレッダーのように機能させながら聞いていたけど、彼が言うには「本というのはマーケティングの最たるモノだ」という。俺が一番嫌いなタイプだった。白米の他に何を食べるとそういう思考回路ができあがるのかを、彼の実家の母親に取材してみたい。

俺は、本ほどマーケティングから遠いモノはないと定義しているし、『ロバート・ツルッパゲとの対話』を読んでくれた人ならわかると思うけど、徹底的にそれらの姿勢と対決しようと思って本を書いた。需要に媚びたモノは、需要がなくなれば捨てられるのだ。

「他人の満足を想定して作られたモノは、貧しい」

とロバートも言っているように、読書とは、「暴力的に作家の考えを押しつけられて打ちのめされる、マゾヒスティックな行為」なのだ。だから、あの作家や編集者は読者のニーズを掴んでいるから売れる、なんていうのはSMの風上にもおけない。

ぶっちゃけると、「ビジネス」とか「経済のあり方」なんて言ってはいるけど、結局は今よりお金を儲けることばっかり考えている人は、エレガントなマゾになれないんだと思う。マゾは満ち足りた人のマイナス行動だから。だって、お金を払ってまでムチで叩かれに行くんだよ。

つまり、余っているお金を捨てることを考えている人と、お金が欲しい人の考えが交わることは決してないんだ。

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ついこの前、『ウィーアーリトルゾンビーズ』の長久監督と、何かを作るためには「魂の戦士」を探して集めなくてはいけない、という話になった。『ホドロフスキーのDUNE』というドキュメンタリー映画を観ていることを前提に書くけど、あそこでホドロフスキーが、ダリやシド・ミードをスタッフとして集めたときのことをあらわす言葉が「魂の戦士たち」だ。

自分と同じ理想、熱量、才能、倫理観を持った仲間がどこかに生きていることを知ると幸福になるし、会って何かができればもっといい。

昨日は、ある人のおかげで「俺が書いた本は、魂の仲間を探すためだった」とわかった。あの本をもしくだらなく苦々しく思う人がいたとしても、その人たちは俺の魂の仲間ではないから、何も気にしない。

今回、危機管理として「哲学関係者」「オタク」「レバレッジのきいた物欲信者」「PDCAにヒモづいた効率バカ」からの批判があることを想定していた。しかし、今のところその界隈からの批判はない。まだ影響力を持つほど売れていないという理由もあるけど、おそらく、棒でつつきにくいフォルムをしているんだろうと思う。攻撃力のある棒を持ったやつの出現に期待だ。


多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。