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バカと利口の構造:Anizine

ちょっと言葉がキツくなりますけど、「バカの、頭がいいと思われたい発言」というのがあります。これ、どんどん増えていますね。

俺はワイルド・バカサイドを歩んできた人間ですから、バカの気持ちは手にとるようにわかります。我々「バカ」という存在自体は、家族や同僚やご近所などに迷惑がかからない範囲であればそれほど糾弾すべきものではないのです。

バカと利口の違いをはっきり言えるでしょうか。これはなかなか難しいと思います。大バカ、小利口、熱いバカ、冷たい利口、のように、形容されるサイズや温度感でもニュアンスは変わってきます。バカは不要なもの、利口は世の中のためになるもの、といった園児じみた解釈では大人の世界は乗り切れません。必要悪という表現からもわかるように、簡単には区別できない「必要と悪」の清濁を併せ飲む姿勢が大人というものでしょう。

バカと利口の間には深くて暗い河とか、壁があるという気がしますが、実はシャワーカーテンのようにゆらゆらと境界線が曖昧に揺れ動くものなのではないかと思っています。真冬にシャワーに入るときに冷たいシャワーカーテンが背中に張り付くと「ヒッ」みたいに妙な声が出ますよね。というように思いついたことを脈絡なく言ってしまうのが揺れ動くバカの証拠です。

昨日、脚本家の川尻恵太さんと、コンテンツの善し悪しを判断する「受け手のチカラ」が不足しているという話をしました。あの作品はつまらない、と語っている人は果たして理解力、そこからもう一段階上の批評能力があるのだろうか、という問題です。「あれはつまらなかった」という理由がはっきりしていて納得がいくものであればそれは制作者への糧になります。これが意味のある建設的な対話と批評であり、もっと簡単に言えば互いに「善き世界を求める優しさ」のあらわれです。

「ここがよくなればもっといいのに」「ああ、そうか、そうですね」という対話ができれば、ネットはより豊かで優しい世界になるはずです。しかしそうはAmazonがおろさない。「問屋」って語感はもう馴染みがないのでアレンジしてみましたけど、「ネットはもっと優しい世界であるべきだ」と発言する人が、自分の優しい意見と対立する人を徹底的に罵倒・攻撃する姿もよく見かけるのです。これが本末転倒であることはわかりきっていますが、なぜそれが起きてしまうのかの理由は明白です。

それは「私たち利口が、きみたちバカを救ってあげる」という啓蒙思想なのです。スタンスがまず間違っている。落語には「与太郎」というバカの代表が出てきます。周りの常識人とは違う角度から世の中を斬ってみせることで、新しい真実を描き出すという落語の素晴らしい発明です。

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合理性とヒューマニズム、という相反する概念をアルファベットのAからZで喩えてみます。利口な人はAを求めますから、Zに佇んでいるお花畑な人を見ていると苛立ちます。なぜみんなAに向かおうとしないのかと。Zの人もまた同じことを鏡像のように考えていますから議論は平行線です。AとZの中間の場所は「Medium」という単語に代表される「M」ですが、この浜崎あゆみ的な中庸を維持する生き方はとても難しく、ともすれば何の意見もない凡庸なやつ、というそしりも免れないとフェルディナン・ド・ソシュールも言っていました。

さて、ここからは大事なことを書くのでメンバー限定です。

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。