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目黒川のスーツケース:博士の普通の愛情

ユリとケンタと3人で中目黒を散歩していた。桜が終わったので人も少ない。何気なく川を見下ろすと、旅行用のスーツケースがぷかぷか流れていた。

ケンタが、「何でも川に捨てるやつって迷惑だよな」と言う。俺もそう思ったが、ユリはしばらくそれを眺めていた。最近できたと思われる川沿いのカフェに入る。中目黒という街はお洒落だと勘違いされているが、本当の良さは野暮ったいところにある。渋谷と目黒に挟まれている立地と言えば聞こえはいいけど、大橋と大鳥神社が持つ地味な雰囲気を、代官山の裾野というイメージでごまかしている。いや、住民はごまかしていない。外から訪れる人がそう思い込んでいるだけなのだ。

アイスコーヒーを頼む。店にはわかりやすい「峰打ち感」が漂っていた。ケンタの実家は青葉台にあるから、この街の変遷を知っている。「地方から東京に来る人には、噛み砕いたお洒落感が必要なんだよ。だからあまり尖ったセンスじゃなくてこれくらいの峰打ちが丁度いい」ケンタは普通の声で話していたから店員に聞こえていたかもしれない。もちろん店員も客と同じように噛み砕いたお洒落感が好きで働いているはずだから、聞こえていれば傷つくはずだ。

「さっきのスーツケースあったじゃん」

ハーブティを飲みながら、ユリがあのスーツケースの「真実」を話し始めた。捨てたことに変わりはないけど、あれには悲しい物語があるのよ、と言う。

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半年前につきあい始めた若いカップルが初めてふたりだけの旅行に行こうと計画を立てた。彼は沖縄に行きたいと言い、彼女も沖縄には行ったことがなかったので賛成した。ふたりで何度も買い物に行き、シュノーケルや水着や、おそろいのビーチサンダルなどを買った。その楽しさと言ったらなかっただろう。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。