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牛たん弁当:博士の普通の愛情

仙台に住んでいる古い友人、片岡が、六本木で家具の展示会をするというDMが届いた。

片岡とはしばらく会っていないし、彼が作る家具が好きだったので見に行くことにした。もしかしたら東京ではあまりお客さんが来ないんじゃないかと思っていたが、それは杞憂だった。広いショールームにはひっきりなしに客が来て、家具はどんどん売れているようだ。そんなこともあって、忙しく立ち回っている彼とは簡単な挨拶しかできなかった。

代わりに、手伝いをしていた若いアシスタントの女性が僕につく。彼女がひとつずつ丁寧に家具の説明をしてくれた。ユカという名前だった。

「師匠、ショールームを閉めてから三人で食事に行きませんか」というユカさんの提案に、「おお、いいね。行こう」と、片岡が言う。こいつはアシスタントに自分を師匠と呼ばせているのか。彼らは東京の店をほとんど知らないので、僕が探して予約をした。そこそこちゃんとしたイタリアンの店を選ぶ。

店に着くと、「こんなに素敵な店に初めて来ました」とユカさんは素直にそう言った。片岡は家具のデザイナーになる前は和食屋で料理人をしていたこともあって味にはうるさいが、パスタを食べながら、「さすが飯田だ。いい店を知ってる」と言ってくれた。よかった。

ユカさんはとても素直な女性だと思った。家具のデザインに興味を持ち、ひとりで数ヶ月ほどミラノに行っていたことを話してくれた。「彼女は行動力があるんだよ。俺たちが25歳の頃とは全然違う」と、片岡が自分のアシスタントのことを自慢げに言う。僕もそう思った。40歳を過ぎた今でも、そんな冒険はできそうにない。

食事が終わる頃には、ふたりの関係が気になるほど、僕はユカさんに興味を持ち始めていた。片岡たちは新橋のホテルに泊まるそうなので、三人でタクシーに乗った。ユカさんは真ん中に座った。

「俺たち二人とも体格がいいから狭いだろう」と片岡が言う。「飯田さんは体格がいいけど、師匠はデブなだけです」ユカがそう言うと、師匠は笑っていた。ふたりをホテルの前で降ろし、僕はそのまま自分の家に帰った。

妻はテレビを見ていた。「まだ起きていたのか」と声をかけるが、ああ、とか、はあ、みたいな声を出しただけでこちらを振り返ろうともしない。正直言って、僕は数年前からこの家という空間に何の期待もしていなかった。

ひとりで寝室へ行き、ベッドに入る。スマホにユカさんからのメッセージが届いていた。「今日はありがとうございました。飯田さんのお話、とても楽しかったです。今度仙台にいらっしゃるときにはまた師匠とお食事に行きましょう」と書かれていた。それが始まりで、ほぼ数日おきにユカさんとメッセージをやりとりするようになった。内容は他愛もないことだ。

僕には女性にメッセージを送るときに気をつけていることがある。それはどんなにカジュアルな意味であろうとも、ハートマークの絵文字や、それが入ったスタンプを使わない、ということだ。誤解を招く行動はしない。誤解を避ける相手とは、その人であり、僕の妻でもある。

恋愛とか結婚とか、そういうことのすべてにうんざりしていた。コンピュータを扱う僕は、とても機械的というか科学的に答えが出やすい仕事をしているので、人間の不条理で矛盾だらけな感情に付き合うのが苦痛だ。
「あの時、君はそう言っただろう」と、妻の矛盾を何度指摘したか、数え切れない。そこで返ってくる答えはいつも、「その時はそう思ったんだから仕方ないでしょ」だった。

半年くらいしたある日、僕は福島に出張に行くことになった。ユカさんに、「福島に出張に行くことになった」とメッセージを送ると、「会いに行きますよ」と返事が来た。最後にハートマークがついていた。

本当は日帰りで帰ってこられるスケジュールだったが、僕はホテルを予約し、妻に着替えの下着を用意してもらった。スマホでホテルをチェックしながら、「シングルルームなのに、けっこう高いな」などとわざとらしく声に出す。

仕事の打ち合わせはあっという間に終わり、昼過ぎには解散。やることがなくなったので、福島駅前にある「グリーンパレス」という名前のホテルにチェックインした。何というか、郵便貯金ホールのような印象の建物だった。
二つ並んだベッドのひとつに寝転がってスマホを見ると、ユカさんからのメッセージが来ていた。

「私は19時頃に仕事が終わるんですけど、どうしましょうか」と書かれていた。食事をするにしても、僕は当然のこと、彼女もこの近くの店など知らないだろう。そう返信すると、「じゃあ私が仙台で何かお弁当でも買って行きますよ。飯田さんはホテルでのんびりしていてください」と言われた。

20時近くに部屋のチャイムが鳴ったのでドアを開けると、そこにはお弁当を持ったユカさんがニッコリして立っていた。僕はその時、たぶんこの人のことを好きになっているなという、自分の気持ちがわかった。

「うれしいなあ。伯養軒の弁当だ」と言うと、彼女は、「え、伯養軒を知ってるんですか」と驚いた顔をする。「知らない。ビニール袋に書いてある名前を読んだだけ」「飯田さんって、本当に面白いですね」なんていうくだらないやりとりをしてから、テレビを見ながら牛たんのお弁当を食べた。

「牛たん、って東京の人はすぐに言いますけど、実は仙台と牛たんにはあまり関係はないんですよね」と教えてくれた。僕もそれは聞いたことがある。でも最近はご当地名物を作るのに必死だから、縁もゆかりもないものを
むりやり捏造していることは珍しくもない。

「仙台からわざわざ来てくれてありがとう。近いわけでもないのに」と言うと、「近いですよ。30分です。会いたかったですから。飯田さんが30分の距離にいるのに、来ない方がおかしいです」と彼女は言った。20歳も年上の自分に、会いたかった、と言ってくれる女性が、目の前のベッドに腰掛けている。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。