見出し画像

昭和セピア色のこんなハナシep10.「ベニヤ板の街並み」の巻。

日活映画全盛期

タカシ君と二子玉川方面にサイクリングに出かけた。その日は台風一過の今日のようにとてもいい天気だった。

心地よい風にあたりながら多摩川の土手を自転車でのんびりと走っていた。

かなり走行したころ、タカシ君がさりげなく「日活の撮影所があるらしい」と言ってきた。俺は「へぇ~そうなんだ」くらいにしか思わなかったのだが、「調布の方らしいよ」と返してきた。

そもそも、どの辺を走っていたのか検討も付かず、好奇心からか、お互いに「行ってみようか」となった。

今の時代のように性能の良い自転車ではない。ましてやスマホのように簡単にナビゲーションマップを見るわけでもない。ひたすらこぎ続け、どうやら射程圏内に到達した。


ダイヤモンドライン

戦後社会、庶民の暮らしも徐々に豊かになり、昭和の娯楽と言えばやはり映画が挙げられる。

日活は今からおよそ100年前(1912年9月10日)創業された日本で最古の映画会社だ。

戦後、GHQの影響(民主化)によってアメリカの娯楽映画が配給されるようになり、庶民にとっては娯楽映画を渇望していたことは間違いない。

戦後間もないころまでは時代劇が主流だったが、昭和30年代以降、いわゆるアクション映画が絶頂期を迎えることに。

日活全盛期と言えば、石原裕次郎(タフガイ)を筆頭に小林旭(マイトガイ)、赤木圭一郎(クールガイ)、和田浩治(やんちゃガイ)らによって通称「ダイヤモンドライン」を結成し、アクション映画が人気を博していた。

タカシ君は和田浩治が好きだった。俺は赤木圭一郎がカッコいいと思っていた。

いわゆるスターたちのことをどうやって知ったのか、それは年の離れたタカシ君の姉が、中学卒業後、製菓工場へ就職してからである。姉がキネマ旬報、平凡など映画や芸能雑誌などを頻繁に購入していて、タカシ君の家でいつでもそれらの雑誌を見ることができた。

残念なことに赤木圭一郎は昭和36年2月14日、撮影所内で、ゴーカートと呼ばれる車で事故を起こし、頭部の緊急手術が行われたのだが、2月21日、帰らぬ人となった。21歳の若さでこの世を去ってしまったのは実に惜しまれる。


さて、多摩川の土手から日活撮影所の敷地が見えた。当時、周辺は畑などが点在し視界を遮るものがなく、かなり見渡せた。

土手からすぐ近くに見えたのは、街並みに見立てたベニヤ板の造作物だ。

ベニヤの街並

初めて見る撮影用の街並みを模したセットには正直えっ?こんな風にできてるんだ、と驚きを隠せなかった。

タカシ君とスターたちの話題、そしてこんなベニヤ板の街並みを初めて知ることになった少年のころ、きっと楽しい思い出だったのかも知れない。

ふっと当時が思い出された。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?